第49話 ばっけ味噌(フキノトウ味噌)
「…春…だよな?」
3月上旬の金曜日夕方、男は身震いしつつ言った。
2月の中頃には一度15度を記録した気温が、ここのところ再び落ち込んで冷えてきたところだ。
先月末には男も一度春物の薄手のコートを出していたが、今週に入って再び厚手の冬物を引っ張り出してきた。
「桜も咲いてきたってのにこの寒さだと、ちょっと春感が足りないな」
別に寒さで体調が悪いというわけではない。だが、気温が寒過ぎて春を感じない。
「何か春っぽいものないかなぁ」
と、男は商店街へと吸い込まれていく。
商店街では、気温と打って変わって春を全面に押し出していた。
昔ながらのブティックでは春物の服が店頭に並ぶ。和菓子店では桜餅が並んでいるようだ。豆腐屋や練物屋、その他惣菜店でも春のものが並んでいる。
しかし、
「もっと、春爛漫って感じじゃなくて、まだ寒さ残る春先って風なのが今の状況には合ってるよなぁ」
と気に召さない様だ。
と、商店街の奥の方、八百屋の前まで来て男は足を止めた。
「山菜か…」
店先には独活やコゴミと言った山菜が並んでいる。
その中でも男の目に止まったのは、
「フキノトウなんて…この時期にピッタリじゃないか」
フキノトウが小さい袋にみっちりと入っている。20~30個は入っているようだ。
「お客さん、良いのに目をつけたね。それ福島産の今朝届いたばかりのものさ」
八百屋の主人が声を掛けてくる。
今朝届いた、ということは採ったのは昨日か一昨日だろう。フキノトウの鮮度としては可も不可も無いが、その割りには全体的に鮮やかな新緑の色で、紫になっているところは少ない。
「良いですね。では、これ頂けますか?」
男はフキノトウの袋を手に取って言う。
「あいよぉ、他にはどうだい?コゴミなんか美味しいよ」
と、八百屋の主人は勧めてくるが、
「いえ、独り身ですから、買い過ぎると悪くしちゃいますよ」
男は断る。以前八百屋の主人に大量に買わされたために男も警戒している。
「そうかい?じゃあフキノトウ1袋ね」
八百屋の主人もそれを察してか、引き下がって会計する。
男はその足で酒屋に向かう。
カランと酒屋のドアベルが鳴る。
「いらっしゃい。お、来たね。お料理会は再来週だっけ?」
男が入るなり、女店主が声を掛ける。
「どうも。えぇ、春分の日ですね。お店営業してたと思いますけど、大丈夫でしたか?」
と男。
以前約束した料理教室もどきは、3月の春分の日に行うことになっていた。
「たまには良いだろって親父がな。店番してくれるらしいよ。最近こういうのに優しいんだよね」
どうやら先代店主が店番をしてくれるらしい。
「なるほど。では問題ないということで」
「そういうこと。で、今日は?何食べるんだい?」
女店主が聞く。
「八百屋さんでフキノトウが売ってまして。今日はこれの天ぷらで一杯やりたくてですね」
男が答える。
「春だねぇ。フキノトウなら日本酒だよな。スッキリとキレの良い、まあ爽酒ってやつが合うかね」
と女店主は酒を見繕い始める。
「爽酒よりも濃醇なヤツの方が好みなんですが…」
と男。
「あんたの好きな酒と合わせたら、せっかくの苦味や香りが潰れちまうよ」
と女店主は言い、棚から酒を持ってくる。
「その点、コイツは優秀だ。香りも味も薄くはないが穏やかで、キレが良いから飯の邪魔をしない」
女店主は続ける。
「うーん…そうですね。それでお願いします」
男も女店主の提案を受け、支払いを済ます。
帰り際、男は一言、
「来週もまた来ますので」
と女店主に言って店を出る。
普段言わないようなことを言われて女店主もポカンとした顔をして、男を見送る。
家に着き、男は先程の一言を思い出す。
「伝わったか?…まぁ、伝わらなくても良いか」
と思いつつ、食材を台所に並べる。
しかし、
「…やっちまった…油足りない…」
揚げ物用の油が足りないようだ。
手元にあるのは大さじ数杯程度のごま油のみ。とても揚げ物ができる量ではない。
男はどうしたものかと冷蔵庫を漁ってみるが、基本的な調味料や豆腐しかない。
ふと、冷蔵庫の中の味噌が目に入る。
「味噌…味噌か…よし、これなら油が足りそうだ」
男は今日の晩酌を変えるようだ。
改めて食材を台所に並べる。
【ばっけ味噌(フキノトウ味噌)】
・フキノトウ
・味噌
・醤油
・みりん
・ごま油
ばっけ、またはばんけとは、秋田等の東北地方でフキを意味する言葉だ。
ばっけ味噌とは、フキノトウを味噌と合わせた料理、または食材を指す。そのまま下処理したフキノトウをごま油で炒め、味噌、醤油、味醂と合わせることでできる。
まず、フキノトウのの下処理だ。
鍋で湯を沸かしておき、フキノトウ一袋分の外側の皮を一枚剥がし、根本の少し汚れた部分を切り離す。
縦に半分に切り、軽く水に晒す。
水に晒したフキノトウは鍋でさっと湯掻いて、再度水に晒す。
これで下処理は完了。
続いて、炒める前の準備。
まず調味料を準備する。大さじで味噌を4、醤油を1、みりんを2を器で混ぜておく。
その後、下処理したフキノトウを半月切りに細かく刻む。
あとは炒めるだけだ。
小鍋にごま油を多めに敷いて、フキノトウを焦がさないように炒める。
全体に油が馴染んだら、先程混ぜた調味料も入れる。
程よく水分が飛んで好みの固さになったら、火を止めて粗熱を取る。
容器に移して、完成だ。
男は冷蔵庫に残っていた豆腐と共に、ばっけ味噌、切子、日本酒と食卓に並べた。
みりんを使ったからか、ばっけ味噌の表面がテラテラと照っている。
男はまず、ばっけ味噌をそのまま箸でつまんで食べた。
「あむ…んぐん…んー、春だなぁ」
味噌、醤油、みりんの濃厚な味付けも然ることながら、フキノトウの香りと爽やかな苦味が強烈だ。
小さな子などはとても食べられないような味と香りながら、日本酒飲みにとってはこの苦味が嬉しい。
男はそれを豆腐に乗せて食べてみる。
「ちょいちょいっと…あむ…むにゅ…んぐん…」
豆腐の豆の味わいが味噌、醤油、みりんの日本人が好きな味と香りに合う。
そしてそこにフキノトウの爽やかさが重なる。
男は堪らず、日本酒を流し込む。
「んぐ…んぐ…んぐん……ん?あ、これ、やっちゃったな…」
男は少々がっかりした。
日本酒がばっけ味噌に押し負けて、せっかくの味や香りが薄く感じられるのだ。
元は天ぷらに向けて、それに合わせた日本酒を見繕ってもらった。しかし、結果として、それよりも濃厚でパンチの効いたとばっけ味噌を作ってしまったのだ。
「うーん、なんとも、申し訳ない…」
男はせっかく良い酒を見繕ってもらったのに、と少々残念に感じていた。
「来週は良い酒と、それに合う良いものを合わせよう」
いつも心掛けていることだが、この日はいつにも増してそう感じていた男だった。
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