第26話 詩生と暮らし始めて一週間が経った夜。
〇桐生院華月
あたし達は、ビートランドとは違うスタジオにこもって練習をして。
晩御飯用の買い物をして、アパートへの道のりを二人で手を繋いで歩いていた。
「『Wish you were here』のサビって、詩生が上を歌った方が良くない?」
「は?おまえの音域だと余裕だろ?なんでわざわざ俺が必死に上を行く必要があんだよ。」
「詩生の必死さで情熱的に聴かせて、大サビであたしが下のパートのオクターブ上を行く手もあるのかなあって。」
「…マジで言ってる?」
「うん。」
「おまえ、あのキー出るの。」
「たぶん出る…」
あたしは…シンガーとしては初心者。
一応詩生にボイストレーニングをしてもらいながら、自分の出るキーは把握してたつもりだけど…
何となく。
何となく、もっと出るなあ。って…毎日練習するたびに思い始めた。
「…ま、確かに昨日より今日の方が出てたし…もっと本格的なトレーナーについてもらえば…」
「本格的なトレーナー?シークレットなんだから、そこは信用出来る人探さなくちゃだね。」
「時間もないし…」
「……」
「…里中さんに頼むか。」
詩生は首を傾げてあたしを見る。
「え?でも…」
里中さんはビートランドの新社長。
あたしのボイトレ如きで渡米させるわけにはいかない。
「
「あ…うん。」
以前は詩生と同じDEEBEEでベースを弾いてた、あたしのイトコの映が…
すでに二人は入籍済みだけど、朝子ちゃんの誕生日に式を挙げる事になったそうだ。
朝子ちゃんは海君の許婚だった。
何だか色々複雑に絡み合った糸が少しずつ解されていくみたいに…
朝子ちゃんは映と。
海君はお姉ちゃんと。
それぞれ幸せに落ち着いて良かった。
…お姉ちゃんの婚約者だった志麻さんは、朝子ちゃんのお兄さん。
だから…出来れば志麻さんにも早く幸せになって欲しいな…
「その帰国に合わせて、少しだけ時間空けてもらえるか聞いてみようぜ。」
「そっか…里中さんなら……って、厳しいんだろうな…」
そのスパルタぶりは、色んな人から聞かされた。
普段は優しい人なんだけど…スタジオに入ると豹変するって。
詩生も…里中さんから厳しい宣告をされた。
でも今は何とも思ってないみたいだし…いいのかな?
アパートまでもうすぐ。
お姉ちゃんの家の明かりを見ながら、詩生と手を繋いだまま歩いてると…
ドン!!
突然、大通りの方から大きな音が聞こえて来た。
「きゃっ!!」
あたしは驚いて詩生に抱き着く。
大きな音の方向では、壁に衝突した車が見えた。
すぐに近所の人達が出て来て、通報したり運転手を救出したりと…辺りは騒然としてる。
「ビックリした…大丈夫かな…」
詩生の腕にしがみついたまま、顔を見上げると。
「……」
詩生が、呆然としてる。
「…詩生?」
「……」
「詩生?」
何だか…詩生の目が不安に揺れてる気がして、あたしは掴んだ腕に力を入れた。
「…あ…ああ…」
「大丈夫…?」
「…ちょっと…気分が悪い…」
「…早く部屋に入ろう?」
「……」
詩生の体を支えるようにしてアパートに入る。
…もしかして…PTSD…?
あんな事があったんだもん…当然だよね…
詩生の身体は緊張でなのか…すごく強張っていて。
額にはうっすらと汗も…
「横になって。」
支えるようにして詩生をベッドに横たえる。
ゆっくりと前髪をかきあげて…額にキスをする。
「…大丈夫…」
頬に触れながらそう言うと。
「…華月…」
詩生はギュッと目を閉じて…あたしを抱きしめた。
…元々強がりな詩生が、すごく素直に『気分が悪い』って言った。
事件の後から、何も怖くないって目をしてたけど…
詩生は…爆弾を抱えてしまってたんだ。
『記憶』という…爆弾を…。
〇早乙女詩生
「ん?今日はスタジオ入るんやなかったか?」
病室に入ると、じーさんは音楽雑誌に落としてた視線を上げて俺を見た。
監禁期間が長過ぎたじーさんは、体の隅から隅まで検査をされて入院が長引いてる。
ついでに15年の歳月に追い付くために、色んな情報を見たり聞いたりも。
「…ちょっと話がしたくてさ。」
椅子を引いて、ベッドの横に座って。
「俺…もう怖い物なんてない気になってたけど…」
パタン。と、電池が切れたみたいに頭をベッドに乗せてつぶやいた。
「夕べ…車の事故があってさ…」
「ああ。」
「その音聞いたら…体が言う事聞かなくなった。」
「……」
「何なんだろ。別にあの地下牢を思い出すとか…そんなのないつもりなんだけどな…」
俺のつぶやきを聞いたじーさんは、開いてた雑誌を閉じて俺の頭をポンポンとする。
「入院中、検査では何も?」
「うん…」
「……」
「…じーさんの15年に比べたら…たったの一ヶ月なのにな…」
今思えば、あっと言う間の一ヶ月だったと思える。
それでも、あの暗闇の中では何年も過ごしているような感覚になった。
…俺はじーさんが居て助かってたけど…
もし一人になったらどうしよう…って恐怖は常に付きまとってた。
「むしろ15年やから平気なんやで?」
「…え?」
「もう諦めも覚悟も出来てたからな。けど、一ヶ月やとなあ…まだ希望も捨てれへんし、恐怖も続いてるとこやん?」
「……」
「おまえのそれは、むしろ普通やねんで?」
その言葉に、瞬きを繰り返した。
夕べは華月に抱きしめられたまま眠った。
今まで、自分の弱さを見せるのは嫌だったけど…今の俺は華月に何も隠す事はない。
…もしかしたら急に変わってしまった俺に戸惑ってるのは、華月よりも俺自身なのかもしれない。
普通…
そっか。
普通…か。
じーさんの言葉は、やけにストンと俺の胸に落ちた。
確かに俺はあり得ない経験をした。
それを越えた今、何も怖い物はないと思ってたけど…
その代償がこれで、それは…『普通』の事なんだ。
「…俺、ちょっといい気になってたかもな…」
相変わらずじーさんの手を頭に感じながら、目を閉じる。
「どんないい気になってたんや?」
「…すげー体験したからさ…もう怖い物なんてないなって。」
「……」
「でも、やっと人並みになったって事だよな。」
「……ふっ。」
今までの俺なら…受け入れられなかった。
変化に順応する事。
だけど今は…出来る気がする。
俺はようやく、スタートラインに立てたんだ。
今まではずっと…到達していない立ち位置に、無理矢理立ってただけ。
見かけだけの衣装を着て、中身は育ってないまま。
怖い物は何もないけど、俺は傷を負った。
その傷を抱えたままでも…俺には華月がいる。
俺が辛い時に、一番に手を握ってくれる存在。
「…やっぱ、じーさんは伝説のじーさんだなー…」
「なんやそれ。勝手に伝説にすな。」
「ははっ…」
くしゃくしゃと髪の毛をまぜられて。
それは少し痛かったけど…
「サンキュ。すげー助かった。」
俺は笑顔でベッドから頭を起こすと。
「ついでに、もう少し助けてもらえるかな。」
椅子に座り直して、じーさんに自分の想いを語った。
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