空気を読まないちとせちゃん。

「ちとせんぱーい」

 

 シャープペンシルを走らせる手を止めた。

 ため息ひとつ、メガネを外す。3年になってからかけ始めたのだ。

 少し下がってしまった視力で、そいつの顔を見上げた。


「ここ3年の教室だよ。毎回毎回よく堂々と入って来れるよね」


「ちと先輩が最近図書室に来てくれないからじゃないですか!」


「座っていいですか」返事も待たずにさっさと椅子の向きを変えると、前の席に座る。

 放課から1時間。人もまばらな教室は開け放たれた窓からセミの声が充満している。

 気づけばまた夏が来た。

 髪も随分伸びて、今ではかえでと同じぐらいの長さだ。


「何か用?」


「お話しましょーよー」


 にっこりと微笑むそいつ。

 目鼻立ちのくっきりしたきれいな顔立ちに細い体。

 女子生徒の制服に身を包んでいて、まるきり女子にしか見えない。

 ある意味、私と同じぐらい学校じゃ有名人だろう。

 もちろん、いい意味じゃない。


「今勉強中」


「今日もガリ勉さんですねえ」


「まあね」


 メガネを掛けなおして、シャーペンを握り直す。


「先輩つれない。そんなに勉強してなんになるんですか。どうせわたし達なんて世間の爪弾き者なんですよ」


「そんなの関係ない。私はやりたいことがあるんだ」


 伸びた髪をひとつに結んだシュシュを撫でた。

 顔を上げて、彼に言い聞かせるように言う。「片倉。私と一緒に居たって、私の病気は感染らないからね」


「そんなの、わかんないじゃないですか。わたしは諦めませんからね」


 彼がふてくされたように頬をふくらませる。

 片倉あきらに絡まれるようになったのは、今年の春。

 特別教室棟の屋上前の踊り場でのことだ。


 飛び降りの一件でがっしりした鍵がついてしまったことを除けば、あの頃のまま何も変わらない。

 めったに人の来ないこの場所を、私は気に入っていた。

 昼食はひとりでこの場所で食べているのだ。


 閉ざされた扉の向こうに広がっていたはずの、海のような青い空。

 それが私の心にいつまでも穴を開けて、私を動かしている。


”先輩って、病気なんですよね? それって感染るんですか?”


 入学早々に、片倉はそんなことを言い放ったのだ。

 怒りはしなかった。彼の必死の形相に、なぜだか懐かしさを感じたせいなのだろう。

あれだけの騒動を起こしたのだ。私の病気のことがネットに流れていたとしても不思議じゃない。


 けれども、学校に残れたのもネットの潮流というか世論というか。

 私を退学にしたら、世間から叩かれる。そんな逃げの一手というのか。

 そんなものが味方してくれたおかげでもあるのだから、悪いことばかりじゃなかったように思う。 まあ、出席日数がぎりぎりで地獄を見たんだけれどね。


「時間がもったいないと思うんだけど」


 私が言うと、片倉は顔をくしゃっとして笑った。存外素直な笑顔だった。


「良いんです。理由は感染る可能性だけじゃないんで。わたし好きでここに居るんですから。先輩のこと尊敬してるんですよ。むかつくやつらにあんな風に言ってやれるなんてすごいと思います」


「片倉ぐらいだよ。まだその話題続けてるの」


 ネットのニュースなんて1ヶ月も経てばあっという間に次の話題に移って、3ヶ月も経てばごく一部の関係者ぐらいしか話題にしなくて、1年も経てばすっかり風化している。

 それを少しだけ悲しいと思うのは間違っているんだろう。

 もちろん、事実としては残っているし、不意に教師や生徒が私を見て、どこか強張ったような顔をすることだってある。だけど、皆だって私達だってあれだけの出来事であってもすぐに過去にしてしまえるのだ。


「わたしは一生語り継ぎますよ。だって、ちと先輩は憧れだから」


「片倉。君さ。友達いないでしょ。しつこいもん」


「先輩は本当遠慮しませんよね!? そうですよ、いませんよ。先輩だっていつも一人じゃないですか」


「まあ、私は空気読まないからね。やりたいことのためには、そんな暇ない」


「わたしだって時間ないんです。どんどん大人になって、男に近づいてく。わたしは1日毎に変わっていくんです。手段なんて選んでられません。ちゃんと女になりたいんですよ」


「変わるのが怖いのはわかるよ。でも、」


 必死の目を向ける片倉に微笑んで見せる。


「でも。なんですか?」


「さあ。忘れちゃった」


 もう一度、うしろ髪のシュシュに触れた。

 かえでの生き方を模した。姿を模した。

 変わらないように。留めておくように。思い出にしないように。

 

 でも、もしかしたら

 

「なんですかそれー」


「私はぎりぎりまでここで勉強してるから、居たいなら勝手に居たらいいよ」


 今抱えたこの気持が薄まっていくのが、ひたすらに怖かった。

 なぜ私達はいつまでも同じ気持を抱いていられないのだろう。

 忘れたくない人を思い出にしていけるのだろう。

 抱いた衝動、感動を、思いを、普通と日常に埋めて生きて行かねばならないんだろう。


 忘却は癒やしだという人がいる。

 それなら、私は傷ついたままでいい。心に穴が空いたままでいい。

 いつまでも、いつまでも、かえでのことを愛していたい。それだけでいいんだ。


「先輩って、優しいんだか冷たいんだか分かんないんです。でも、わたし先輩のそういうところ好きですよ」


「そう。ありがと」


「ねえ、先輩。そのシュシュいつもつけてますよね。もしかして彼氏の贈り物とかですか?」


 でも、もしかしたら、私達は大丈夫なのかもしれない。

 変わっても大丈夫なんだって信じてみてもいいのかもしれない。

 いつかこの空の向こうのかえでに追いついて、また一緒に笑いあえるのかもしれない。

 

 もうひとりの冷静な私が、私を嘲笑っている。

 信じてみたって、全部失っていくんだよ。今手元に残っているものを見てみろよ。

 男であったことも、恋人も、友達も、お母さんからの信頼も学校での居場所も何もないじゃないか。瞬時に頭を埋め尽くすように、黒い雲が湧き上がってくる。


「まあ、そうかな。とても大事な人。すっごい変なやつだけど……本当はとても優しいんだ」


 かえで。そっか。


「えー。普通にショックです。先輩が誰かとつながっているところなんて全然想像できないですよ」


「だよね」


 私の口からくすくすと笑い声が漏れる。それが今の私だ。


「あれ。わたしおかしなこと言いました?」


「ううん。私も随分変わったんだなって思って」


 あんなに他人との繋がりを求めていたことが遠い昔のようだ。

 あの時の私が、今の私を見たらなんて思うだろう。きっと、顔をしかめるだろうな。

 でも、悪いようには言わない気がした。


 片倉から目を反らして、窓の外を見やった。

 一羽のカラスが孤独に、けれども力強く翼を広げている。

 高く高く。新しい場所を目指すかのように、どこまでも飛んでいった。

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TS少女ちとせちゃんと、空気の読めないかえでさん。 日向たなか @hinata_tanaka

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