高校生活④
ひりひりする頬を撫でながら、あかりの家を出た。
あかりと結城が何かを言い争っていたけれど、もうどうでも良かった。どうせもう関係ない。
夜に飲まれそうな太陽が、鋭く目を焼いていく。世界が血に濡れたように赤くて、いっそのことこのまま全部終わらないかなあって思う。
あーあ。水着、どうしよう。高校の友人に尋ねるのだけは、絶対に嫌だ。水着の買い方も知らないの?
なんて、言われたくない。オレはちゃんとした女なんだから。
「…だる」
誰に対してでもなく、悪態をつくと同時、スマホが震えた。
落胆しなかったと言えば嘘になる。あかり。結城。そんなわけないのに。
文彦からのラインだ。
妙に可愛い犬のキャラがかまってほしそうに目をうるませているスタンプの後、
『今どこいる? ちょっと会わない? ちとせに会いたいよ』
と、たくさんの絵文字付きで送られきている。こいつ、絵文字好きだよな。
今から会うとすっかり帰宅は遅くなる。
まあ、いいや。母は今日は夜勤だ。
父も家を出ていって久しい。誰も咎める人は居ないのだ。
中学に上がる時、オレが引っ越しを受け入れていたら、父は出ていかなかっただろうか。
まあ、いいよ。どうだっていい。どうでもいい。
路肩に寄って、文彦にラインを返した。
『良いよ。どこで会う?』
と送ると10秒後に返信があった。
ここから都心に向かって電車で40分ほど。高校に近い駅を指定してきた。定期の範囲内だ。
頬、腫れてないかなあ。
確認する手段はいくらでもあるけれど、見るのも億劫だった。
というか、見るのが怖かったんだ。
結城。もう戻れないんだな。わかってはいたけどさ。
あの日。男と女を自覚したあの日から、お互いが友人に戻れるわけがないってことぐらい。
「ちとせ!? どうしたのその頬!」
改札を抜けて文彦に会うなり、目をまんまるにされた。
案の定だ。結城め。ずいぶん強く殴りやがってくれたみたいだ。
「なんか、寝てたらスマホ落とした。角っこがガンって」
身振りを交えて言う。我ながらありえない酷い嘘だけど、
「うーわ。痛そう。大丈夫? 絆創膏貼っときなよ。ぼく持ってるよ」
文彦は素直に心配してくれて、リュックからよれよれになった絆創膏を渡してくれた。
めっちゃ小さくて、貼る意味あるのか疑問だけど、彼のこういうところは好きだ。
一つずつ好きなところを見つけている。男をちゃんと好きになって、ちゃんと女になっていきたい。
もう戻れないなら、仕方ないだろう。
「ありがと。そうするよ」
もらった絆創膏を貼って、彼の隣で街を歩いた。
すっかり暗くなった街中を、帰宅を急ぐ不機嫌そうなサラリーマンが足早に歩いていく。
オレも文彦も、普段からそこまでおしゃべりな方じゃない。それでもいつもにまして文彦は寡黙だった。
なんか、もじもじしているというか。
理由は何となく分かる。泊まりに誘った後の二人だ。
オレが男だったからなのか。それとも女にはそういう能力があるのか。どちらかは、わからないけれど。
これはいい機会なんだ。投げやりになったんじゃない。そう言い聞かせた。
「文彦。公園行こう。少し休みたい」
街中にしてはかなり広くて、木々が生い茂った公園が近くにあったはずだ。
「え。あ。うん」
返事を待たずさっさと歩いた。
公園に入り、きょろきょろとあたりを見渡す。
人は時間のせいかまばらだ。街灯の多い公園は、割と明るかった。
ベンチを見つけた。木製の古ぼけたベンチだ。
何も言わず、さっさと座る。文彦の気配はあるのかないのかもよくわからない。
座って見上げると、慌てて小走りになって追ってくる彼がいた。
「ちょ、ちょっと。急にどうしたんだよ、ちとせ」
「歩き疲れたから」
「その割にすごい早足だったけど」
「そう?」
「…ちとせって、何考えているのかわかんない時、多いよ。あんまり自分から話してもくれないし。そこが良いんだけど」
苦笑いとも泣きべそともつかない表情をして、文彦が隣に座る。
これは失敗だったかな。女の方から動くのは不自然だったかも。
何が正解なんだろう。
そんな事を考えながら、文彦の顔をじっと見つめていた。
何考えているの? オレだって自分のことがわからないよ。
「私は案外何も考えていない、かも」
「ぼくは色々考えてるよ」
文彦が少し気取った風に笑う。
「うん」
「ちとせと付き合ってからもう1年だよね」
「うん」
そうだっけ。そうだったかも。
「うん。だから、その…」
沈黙が降りて、カラスが鳴いた。遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえた。
返事をしていいか迷う。彼が手元をもじもじさせている。その決心が鈍るのが嫌だった。
だけどあまりに沈黙が長いから、
「文彦?」
つい、声を出してしまった。彼は急かされた子供みたいに、ちょっと不安そうな顔をした。
ベンチの前を、疲れきった顔をしたサラリーマンが一瞥して足早に去っていく。
ガキは楽しそうで良いな。サラリーマンの苦笑いにそんな羨望と蔑みが含まれていた気がした。
ふざけんなよ。こっちは必死でやってんだよ。
「ちとせが、何を考えてるか。ぼく、分かるよ」
「そう? 当ててみて」
まさか通りすがりのサラリーマンに悪態をついていたとは思うまい。
「関係をすすめたいんだよね。もう1年だし」
「うん」
正解。いい加減、諦めないとだめなんだ。
「ぼく、正直へたれだし…でもぼくも、ちとせのこと大好きだから」
も。これは、正解?
「そうだね」
「そうだねって。否定してよ。もう」困ったように笑って、それから彼はオレの両肩を掴んだ。「キスするから」
あ。これは好きじゃない。いちいち訊かないで良いよ。
「うん」
文彦の顔が近づいてきた。肩を掴んだ手は汗ばんでいてじっとりしている。
整髪料と、香水の混じった匂いがする。
横に長い唇の上に産毛のようなヒゲが見える。
「ちとせ。目、とじてよ」
「あ。ごめん。はじめてだったから」
そうだった。忘れてた。
「そうだよね。ちとせも緊張しているんだよね」
「うん。してる」
緊張してる。キスすることに対してじゃなくて、この行為が終わった時、自分がどういう感情を抱くのかに対してだけど。
オレはいつでも自分のことしか考えていない。
文彦。私のこと、本当にわかってる?
「じゃあ、するから」
「……」
訊かなくていいってば。目を閉じた。文彦の荒い吐息が、ひどく大きく聞こえた。
唇と唇が触れた。思っていたより、柔らかかった。
10秒だったのか、1分だったのか分からないけど、しばらくそれだけをしていた。
「ちとせ!?」
文彦の驚いた声に、むしろオレが驚く。
目を開ける。視界が霞んでいた。
「ん? ああ」
「ああって。泣いてるじゃん。ごめん、ぼく、なんかした!?」
「ううん。ちょっとびっくりしただけ。ごめん、やっぱ帰るよ。海はちゃんと行くから心配しないで」
「ちょ、ちょっとまってよ!」
ゆっくりと立ち上がる。心は凪いでいて、ひどく冷静な声が出た。
無理やり何も考えないでいたら、身体の方に出たみたいだ。
伸ばされた文彦の手を躱して、公園から出たところで口と目元を乱暴に拭った。
気持ちが悪い。
だめだった。平気だと思ったのに。オレは女にもなりきれない。どうしたらいいんだよ。
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