とうめいには、なれない

 もう秋を迎えるというのに、その日は早朝からとても暑い日だった。

 毎日のようにお見舞いに来てくれる彼は、たくましい筋肉の浮いたTシャツに、ほんのりと汗を湿らせている。


 私を尋ねてくるのは、彼と、もうひとりの女の子が時々来るだけだ。

 特に彼は毎日来てくれて、他愛のない会話で楽しませてくれる。

 個室の病室でロクに会話する相手も居ない私にとって、それだけが毎日の楽しみだった。


 強いストレスと極度の緊張、疲労による解離性健忘だろうと今の主治医には言われている。

 手続き的な記憶はしっかり残っているのだけれど、自分の歴史というのか、生活史というのか。


 どんな風にいまこうしてここにいるのか、ほとんど思い出せないのだ。

 治療の一環になるのではないかと、母が提案して連れてきてくれたのがかつて私の親友だったという彼だった。


 確かに離していると、酷く懐かしさを覚えて、きっと私達はずっと一緒に居たのだと思えた。

 ずっと一緒に? それは、彼に向かって言った言葉だっただろうか。

 なにかとても大事なものを失くしたような、胸にぽっかり穴が空いたような。

 そんな胸騒ぎを覚えた。


「ねえ、結城くん。私って、あなたたちの他に友達居なかったのかな。なんだか、大事な事を忘れてる気がするんだ」


 彼に突然抱きしめられたのは、その時のことだった。

 

「ちとせ。思い出さなくていいよ。思い出したってつらいだけだ。国領だって、今日日本を発つんだしもう良いんだよ」


「結城くん……」


 恐る恐る、彼の分厚い背中に手を回した。

 もしかしたら、私達は恋人同士だったのだろうか。

 あれ。国領って誰だっけ。恋人?


 切断されていた配線が、一気につなぎ合わされたような。目の前の霧が一気に晴れたような。

 点在していた記憶のピースが頭のなかで一気に意味を持ち始め、軽い頭痛を覚える。

 って。

 目の前の彼。

 

「ちとせ?」


「ゆ、結城じゃん!」


 慌てて体を離した。ちょっと突き飛ばしてしまった彼が、ベッドの横でよろけたけど私は悪くない。


「お。おお。もしかして、記憶が戻ったのか?」


「戻ったのかじゃない! なにやってんだよ!」


「いや、だってお前、飛び降りて、運良く高跳びマットの上に落ちたけど、それからしばらく意識がなくて……目が覚めたら記憶なくてさ」


 そうだった。屋上で時間をかけてる間に、下にしっかりマットやらを準備されていたのだ。


「かえでは?」


「同じく無事。病院は違うところだったけどな」


「そっか、よかった」


 安堵して一度深呼吸。

 いろんな情報が頭の中を駆け巡って、掴みきれない。

 救急病院で一通り検査を受けて、結果どこにも異常なし。

 ただ、記憶だけが戻らない状態だったから、2週間後に今の療養の病院に移って……結城が毎日お見舞いに来てくれるようになって、それで――「ああああ!」


「な、なんだよ、大声出すなよ」


 結城がのっそりとベッドの横に立って、心配そうに、そしてそれ以上にバツが悪そうに私を見下ろした。


 結城との会話の内容も、しっかり覚えている。

 忘れてしまえばいいのに!


『結城くんが来てくれて、私すっごい嬉しいよ』

『ああ。俺もちとせの元気な顔見れて、すげえ嬉しい』


 まるで私はすっかり最初から女だったように思い込んでいて、結城もそんなふうに扱って、

 ともすれば私達は恋人のようないちゃつきっぷりだった。


「なにが結城くんだよ!」


 横に立つ彼のお腹にパンチを入れてやった。

 硬い腹筋にあたって、今度はびくともしないし、声ひとつ漏らさなかった。

 悲しいような、感心したような。


「良いだろ、あかりとはとっくに別れたんだから」


 顔を染めるな。

 照れくさそうに、ふやけた笑顔で頬をかいている彼が言い放った言葉に、頭がますます混乱する。別れた? かえでが日本を離れる? なんで?


「待って。頭が追いつかない。かえでは、日本を離れるって本当? それも、今日」


「そうだよ。親父さん逮捕されちゃってさ。マスコミやらイタズラやら、ネット炎上やら色々大変だったんだよ。ほとぼりが冷めるまでしばらくはお姉さんの住んでる海外で面倒を見てもらうんだとさ。お前だって入院してなければ大変だったと思うよ。ここはさ、守られてるからさ」


 あれだけのことをやらかして、無様にまだ生きている。お母さんだってまたたくさん泣かせただろう。今も、きっと迷惑をかけてる。

 学校にだって、そうだ。今は休学状態。確かそういう話を聞いたのは覚えている。

 そうまでしてやりたいことは、一体何だったんだろう。


「そっか。今日……かあ。かえでは、なにか言ってた?」


「何も。お姉さんから連絡をもらったっきりだな。一応、お前の状況は向こうにも伝えてあるけど、あいつはあいつで外を出歩ける状況でもないだろうしな」


「……結城。あかりと、別れたんだ」


「元々、うまくいくはずがなかったんだ」


「そっか」


 それきり結城が黙って、私は病室の窓から外を眺めた。

 酷い虚脱感だ。頭に手をやると、かなり髪が伸びている。外はまだ勢いのある青葉の木々が並んでいて、熱せられたアスファルトで空気がかぎろいでいる。

 せっかく買った水着も、使うことなく夏が終わろうとしている。いや、カレンダーとしてはとっくに終わっているのだ。


「とりあえず看護師さんに報告しなきゃな。検査とかまた必要かもしんないし」


「ねえ、結城。私たちのしたことって、間違いだったって思う?」


 不安がもたげて、とっさにそんなことが口をついた。

 最悪の質問だ。言ってしまった後に舌が酷く苦かった。

 けれど、結城の目はどこまでも優しかった。


「正直、俺はそう思う。でもお前が記憶を失って、またこうして話ができて……色々実感できた。俺はずっとお前が好きだったんだ。それは、よかった」


「最初に言ってくれたら良かったのに」


「言えるかよ。男の頃のお前を知ってるんだぞ。それにお前、あの頃あかりが好きだっただろ」


「そうなんだけど。じゃあなんであかりと付き合ったのさ」


「あの頃は女のお前と一緒に居ると色々やばかったんだよ。正直に言うよ。男の趣味も持ってて、見た目も好みで、めっちゃタイプだった。それなのにロクに話もできなくてさ。お前が近くにいると、めっちゃ腹が立ってきて……あかりに告白されて、助かったんだ」


「面倒くさいやつ。っていうか普通にひどいやつじゃん!」


「まあな。だから……その……。謝って許されることじゃないのは分かってる。けどさ、ちとせ、もう1回やり直せないか、俺たち。友達からもう一度さ」


 結城の言葉がふっと宙に浮いた。まっすぐに私の目を捉えて、確信めいたその顔が男らしくて、とても正しく見えた。


 ごつごつした手が上から差し伸べられる。

 それを握り返したら。男と女で、ちゃんとした集団に居られる。

 そんな未来もきっとあったんだよな。


「オレ」結城の目が少し揺れた。「友達には戻れないよ、もう」


 私は変ってしまった。水のように透明な心で、誰にでも平等で誰からも愛されてどんな形にもなれたら、きっと幸せだ。そんな人間を目指していたはずだった。

 女になってから、いつだって正しい世界に憧れてきた。


 男女のカップルを羨んだ。女子同士で楽しくしゃべる子達をみて羨んだ。

 それは光に溢れた丘の上のことのようで、とても眩しかった。

 孤高を貫くかえでのことは、鳥のように遠く思えていた。

 けど今は、人から嫌われても、欲しい物が出来てしてしまった。

 私がやりたいことなんて、とっくに決まっていたのだ。


「だけど、ちとせ。国領は、もう遠くに行ってしまうんだぞ」


「うん。それでもいいんだ」


「お前、記憶をなくしていた時は男だった事忘れてて、本当に幸せそうだったんだよ。覚えてないか?」


「覚えてる。オレは、ずっとそんな風に生きたかったんだと思う。でも、オレが居たいのはここじゃない。だから、今日でおしまいなんだ。結城はもっとちゃんとした人を見つけるべきだよ」


 あれ。こんなことをかえでにも言われた気がした。そしたら私が離してやらないって、答えたんだっけな。やりたいことなんて、それだけだ。


「お前も、大概面倒なやつだと思うよ」


 結城が目をそらして、大きくため息をついた。目頭を一瞬抑えたのは、きっと気のせいだ。


「うっさい。でさ。私、空港に行きたいんだよね。手伝ってくれない?」


「いやいや。お前、今入院中。勝手に外出できるわけないだろ。病院とか親の許可とかさ。つーか今更行く意味なんてないだろ」


「意味なんていらないよ。だから、お願い」


 両手を広げて、微笑んで見せる。流石にこの白い病衣で外を出歩くのは通報されそう。


「ふっといて、すぐに頼むかねそれ」


 結城が苦笑いを浮かべて、半ば呆れたようにため息をついた。

 案外、折れない。やっぱり結城も面倒くさいやつだ。

 人間ってみんな面倒くさいのかもしれないけど。


「あ。思い出した。結城、オレの事殴ったでしょ。覚えてるんだからね」


「っ。あれは」面白いぐらい狼狽して、目が泳ぎまくってる。さかなだ。「俺が悪かったよ。まだ、怒ってるよな」


「ううん。全然。でも、悪いと思ってるなら手伝って。少しは罪悪感が薄れるかも」


「はぁ。ちとせ、なんか変わったよな」


「オレ、変わったかな」


「っていうか、オレっていうのやめろよ」


「わざとだよ。でも、案外悪くないでしょ。もうどっちでもいい気がしてきた」


 挑発的に眉を上げニッコリしてみせる。結城が困惑したように目を何度かしばたかせた。


「わーったよ。何すりゃいいんだ」


「とりあえず、服なんとかしたい。後、移動手段。駅まで行きたい」


「服って言われてもな……。今日の部活で使うユニフォームあるから、俺がそれ着れば、今着てるのなら貸せるけど」


 結城の服。上から下まで眺めた。筋肉質で、身長だってかなり高い。サイズが違いすぎる。


「無理そう」


「だな。買ってくるか」


「っていうか、そんな時間あるんだ? 出発何時?」


「確か……14時って聞いてたな」


「全然時間ないじゃん!? 今すぐでなきゃ!」


「まだかなりあるだろ」


「受付とか、検査とか色々あるんだよ! 早く言ってよ! もう!」


「おー、そうなのかぁ」


「そうなのかーじゃないし! 良いよ、この服のまま行くから。結城がうまいこと隠して。こっそり抜け出す」


「ばれて怒られても知らねえからな」


「大丈夫大丈夫。結城に迷惑はかけないから」


 ベッドから起き上がって、結城の肩を軽く叩いた。


「かけてるっつの。ったく。しょうがねえなあ、原付きで送ってやるよ」


「ありがとう、結城! さすが親友だね」


「こちらこそどーも。最高の皮肉だよ、それ。お前本当に変わったよ。国領に似てきた」


 眩しい陽のさす窓に背を向けて、個室の扉を見やった。

 スリッパ出し、病衣だし。目立つだろうなあこれ。

 まあでも、それぐらいどうってことない。なんてね。やっぱりちょっとびびってる。

 結城の背中に隠れつつ、扉を開けてもらった。そしたら、


「なに、やってんのふたりとも。バカじゃないの?」


 あかりが居た。

 初めて見る、鋭い目つきだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る