さかなになる
「こないでください。来たら飛び降ります」
どっかで見たようなべたなセリフを私が吐いて、実際に半歩、かかとを宙に浮かせて見せる。
「文倉、国領。まずは落ち着け。話し合おう。何があったんだ? 先生に話してみろ。話せばきっと分かってあげられるはずだ。死にたいなんて言うなよ。死ぬなんて絶対に間違っている」
どこかで聞いたようなセリフを先生が返した。配信の内容は、生徒から知らされて慌てて飛び込んできたんだろう。
クラスメイトが配信を見る可能性は大いにあったし、想定もしていたけれど、案外到着するのは早かった。
「いや、別に先生ひとりに分かってもらっても仕方ないんですけど」
かえでが鼻で笑い飛ばした。
盛り上がってる先生を見れば見るほど、心が冷めていく。かえでも、同じだったんだろう。
先生の後ろでスマホを構えているクラスメイト。それに全然気づかないんだから。
まず自分の周囲を見たらどうなんだ、なんてね。今更期待なんてしてないけど。
「良いか、よく聞け。世界では食べるものにもありつけず、死んでいく命がある。戦争で失われていく命がある。生きたいって必死に思っているのに、生きられない子供たちが大勢いる。そんな子達のことをお前たちは考えたことがあるか? 恵まれた環境にきっと感謝する時が来る。生きていてよかったって思う時が必ず来るんだ」
「はい。そうですか。遠くの子の命は大事ですもんね」
「分かってくれたか。さあ、こっちにおいで」
「さて。視聴者の皆様。お待たせしました。引き続き、ちとせちゃんをいじめた奴らの名前をさらしたいと思います」
「国領! ふざけるのもいい加減にしなさい!」
先生の後ろの生徒たちがどよめいている。
主に、私のクラスメイト達だ。
中には代田達の姿もある。さっきまではニヤついた顔でスマホをこちらに向けていたけれど、明らかに狼狽した表情になった。
かえでは満足そうに微笑むと、カメラを上目遣いに見つめて、媚びた笑みで続ける。
「えーっと、まずは主犯格。だい――」
覆いかぶさるように、志々目先生の野太い声が響いた。
「国領、待ちなさい! お前にも、クラスのみんなにも将来がある。こんなことでフイにしちゃだめだ。
ここは、ちゃんとお互いに謝ろう。それで、おしまいにしようじゃないか。なあ、文倉もそれでいいだろう?」
「え……あ」
私の息が詰まった。ここまでやったのに、いざみんなの目が私を捉えると、上手く声が出ないのだ。
ずっと喋るのはかえで任せだった。傍観者になったつもりはない。けれど、怖かったのだ。
人の目が、トラウマがしっかり体に染みついている。それがわかるのが心の底から、吐き気がするほど怖かった。
まごついていたら、どんどんギャラリーが増えてきた。
野次馬の生徒や、応援に来た先生の視線、怒鳴り声、罵声、嬌声、嗤う声、心配する声、色んな方向から色んな目が私に向けられていて、絡まる。
指すらもう動かせない。
かえでと握り合った手が、汗ばんで、それなのにひどく冷たかった。
「ちとせちゃん――」
私を安心させてくれるであろうかえでの声も、志々目先生の純粋な大声にかき消される。
「よし! クラスのみんなも、ほとんど居ることだし、みんなで謝ろう! さあ、ほら!」
先生がくるりとこっちに背中を向けて、生徒たちの方へ向き直る。たぶん、夏の太陽みたいな、真っ白な歯を剥き出した、鬱陶しい笑みを見せている。
「ごめんなさい」
誰かが言った。クラスメイトの……話したことのない男子だ。
「ごめんなさい、文倉さん。いじめられてるの、気づいてたのに何もしてあげられなくて」
2回ぐらいしかしゃべったことがない、八丁さんだ。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい、わかってあげられなくて」「ごめんなさい、苦しんでいるの知っていたのに」 「国領さんも、空気読めないとか言ってごめんなさい」「これからは仲よくしよう」「今までごめんね」「もうしないよ、ごめんなさい」「いろいろつらい思いしたよねごめんなさい」
代田達の声も聞こえたような気がした。
ああ、吐き気がする。目眩がして、視界がぐらぐらと揺れている。
「さあ」先生が振り返った。正しいことを信じている純粋な顔をしていた。「お前たちも、分かり合おう。みんな、こうして謝っているんだから。大事なのは未来で、過去なんて、どうでもいいことじゃないか」
謝ってるから。許さないのは間違い。向こうが正しい、正しい正しい。私たちのやっていることは間違いだっていうのは、わかっていたはずなのに。それでもいいんだって思ってたのに。
正しい正しい正しい目が、どうしても怖くて、逃げたくて、体が震えてどうしようもない。
私の気持ちなんて、どうでもいい。今までだってこれからもそうだった。普通で正しい方に従って生きていく。
「ちとせちゃん」
聞きなれた声だ。
「ちとせちゃん!」
「か、」
「好きだよ、ちとせちゃん」
かえでが、手を握ってくれた。
「かえで」
「うん。かえでだよ。ねえ、見てよ。スマホの数だけ、わたし達の姿がネット上に増えていくって、いっそ痛快じゃない?」
かえでが楽しそうにカメラをぐるりと皆の方に向けた。
悲鳴が上がった。スマホを向けていたクラスメイト達が、一斉にそれを下げた。
目が、消えた。
「写すなよ!?」 「ネットに配信してんでしょこれ!?」 とか。そんな喚き声。
「こ、国領! いい加減ふざけるのはやめなさい! いいから、そこから降りて! 警察を呼びますよ!」
さすがに、先生は悲鳴は上げなかったけれど、狼狽が滲んだ声に、奇妙な丁寧語が混ざっている。
みんなちょっとした悪意でこんなにも揺らいでしまう。普通の人間だった。
ああ、そうか。
わたしは、ずっと言いたかったのだ。
言いたいことがたくさんあるのに、何にも言えない。
言ってしまうと、反撃されるからだ。空気を乱すからだ。言わないほうが楽だからだ。
でも、もう。かえでが居てくれればそれでいい。
「どうでもいいことなんて、何一つなかったよ」
私は言う。
「どうでもいいことなんて、ないよ。痛かった。無視をされて痛かった。女なのに男扱いされて痛かった。服を脱がされて痛かった。お弁当を地面に落とされて痛かった。水をかけられて痛かった。トイレに入れなくて痛かった。更衣室から締め出されて痛かった。服や靴を隠されて痛かった。ノートにいたずらされて痛かった。机に画びょうをいれられていたかった。痛かった、痛かった! 私は、痛かったよ。私が何をしたって言うの。私はみんなとどこが違うの。痛くて仕方なかったよ」
名前を言った。カメラに向かって、叫んだ。クラスメイトのほとんどの名前を順々に叫んでいく。
されたことを叫んでいく。
どうでもいいことなんて何一つなくて、私は女になってからずっとつらくて、どこの空気にも染まりきることができなくて、それでもかえでと出会えて幸せだった時間もあって、それが続かないことも知っていて。
そうだ。私の怨嗟が、私の愛情が、ネットで増殖していけばいい。それはとても愉快だ。
「学校もクラスもお母さんも先生もみんなみんなみんなみんな! 大嫌いだ! 死んじまえ!」
やっと言えたよ。にじんだ視界の中で、かえでが微笑んだ。
頭を撫でてくれて、世界にはもうそれだけでよかった。
先生が怒りで真っ赤になった顔で猛突進してきて、私たちを捕まえてしまう。
ずっと一緒に居ようね。
どちらともなく頷いて、手をつないだまま背中から落ちた。
見上げた空が死ぬほど青くて、まるで海の中を飛んでるみたいだった。
私たちは魚みたいだなあ。意識が途絶える前にそんなことを思った。
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