高校生活㉒(へた)

「な、何だ君は。酷いことだって?」


 国領の父は、スーツの襟元を直して、咳払いをひとつした。

 取り乱してしまった自分を恥じるように、何度もまばたきをして、ようやく落ち着いたのかオレを睨み下ろした。


「そうです。かえでを叩いてた」


 向かい合って、顔を上げて彼の目を見据える。

 人の目をこんなにもまっすぐ見たのは本当に久しぶりのことだった。


「はっ」山高帽をきざっぽく撫でて、鼻で笑い飛ばす。「いきなり何を言い出すんだ、失礼にもほどがあるだろう。私はかえでと親子の話をしていただけだよ。君こそ、なんなんだ。文倉さんだったかな?」


「友達です。かえでの」


「友達? ありえない。どうせかえでを利用しているだけだろう。かえでは頭が悪いからわからないだけだ」


「なにを……言ってるんですか? 実の娘に向かって」


「君は知らないだろうけどね。かえでは小さい頃から、人を傷つけても平気な顔で、いつもトラブルの中心だった。だからこそ、私はこうして会いに来てかえでが間違っていないかチェックしにくるし、普通に生きていけるよう教育しに来ているんだよ。

 そんな子に友人ができるはずがないだろう。君は何が目的だ? 正直に言いなさい。そうすれば、今日だけは許してあげてもいい」


 彼は山高帽をなんどもいじりながら、余裕ぶった涼しげな笑みを浮かべている。

 だけどその口調は、隠しきれない苛立ちをにじませていた。


「わたしだって色々巻き込まれてる。腹の立つことだって、傷つけられたこともありました。それでもつらいときに、わたしのことを助けてくれた。行動してくれた。一緒に悲しんでくれた。かえでのことをよく知らないのはあなたの方なんじゃないですか?」


「黙りなさい! 他人に、私の家族の、かえでの何が分かると言うんだ。偉そうな口を聞くんじゃあない。私はかえでのすべてを知っているんだ。君みたいな輩と違ってな!」


 脚の横で作った握り拳が、わなわなと震えている。

 あの手でかえでを殴った。そう思うと、無性に腹がたった。


「わかりません。わたしが見ているのは、かえでの友達としての一面だけですから。でも、わたしたちだって、親には全部は見せない。そんなの、当たり前じゃないですか」


「かえでは、全部を私に見せているよ」


 むきになった子供みたいに、頬を赤くして、それでもキザっぽく笑う彼が妙に小さく見えた。


「……かえでを叩くの、もうやめてください。言いたいのはそれだけです」


「警察を呼ぶ。不法侵入だ。良くて退学だろうな、君は」


 ポケットに手を入れて、スマホを取り出した彼が怒りの滲んだ声で言い放った。


「どうぞ。呼んでください」


 不思議と冷静で、むしろ諦念じみたものがあった。

 退学とか、その後の人生とか、そんなものをぼんやりと考えられる程度には、落ち着いて居たと思う。これでかえでの生活が変わったわけじゃない。何かをなしたわけじゃない。やっぱり、オレはこの程度だ。

 どうでもいいって全部諦めてたオレにしては、頑張ったほうだよ。


「お、お父様っ、わ、わたしは」


 振り返るまでは誰の声かわからなかった。

 いつも余裕ぶって、泣いたところなんてみたことなかったからさ。

 ぐしゃぐしゃの顔で、何も覆うところがなくて、みっともなくて、汚い。

 そんな顔するなんて知らなかったんだよ。


「かえで。どうしたんだい、そんなに泣いて。ごめんね、怖がらせてしまったね。もう、終わるからね」


「け、警察をよんだら、全部話すから」


「かえで?」


「お父様が、好きだって、愛してるって、わたしに言ってくれたこと、したこと、全部、話すから!」


「何を、言ってるんだ。かえで」


 スマホを打つ手は、たしかに止まって彼はかえでに一歩近づいて、彼女の頬に手を伸ばす。

 鋭い音がして、その手をかえでは弾いた。

「触らないで。わかってるでしょ」


「かえでの言うことなんて、誰も信じないよ」


「録画、してあるから」


「……本当だとは思えないね。どうせブラフだ」


「じゃあ、試してみればいい」


「かえで。よく聞きなさい。周りはみんな敵だらけで、みんながお前を疎んできた。私以外の誰が、今まで仲良くしてくれた?」


 くつくつと、かえでは両手で顔を覆って笑い始めた。

 お腹の底から、本当におかしそうに。

 もう一度顔を上げたときには、とてもきれいな顔をしていた。

 涙と、笑い声と一緒に全部口から出てきたみたみたいだ。

 きれいなものばっかりじゃ、ない。むしろ、


「お父様。わたしは、生きてるよ。変だって言われても、誰に嫌われても、生きていける。ちとせちゃんっていう大事な人がいる。お母様は死んだけど、わたしはちゃんと生きて、おとなになってみせる。わたしは、お母様の代わりじゃない。いい加減、現実を見なよ、クソオヤジ」 


 彼女は言ったのだ。

 お腹の中にあったのは、きれいなものなんかじゃ、ない。

 人形のような容姿の彼女が、人間のように醜く爽やかな笑みを浮かべている。


「かえで」


 オレはかえでの手を取った。

 かえでも、オレの手を握り返した。


「ちとせちゃん」


「今日、うちに泊まれば? なんか、そんな気分」


「うん。行こう」


 着替えもなにもないけど、たぶん大丈夫。

 そのまま部屋を抜け出した。かえでの父はなにも言わなかった。

 ただ、おもちゃを取り上げられた子供のように寂しそうで、悔しそうな表情を浮かべているだけだった。

 また逃亡だ。

 逃げてばっかりのオレたちは、本当に生きるのがへたくそだ。

 笑っちゃうよ。どうせ夜が明ければ現実に追いつかれるのにさ。


 ねえ、かえで。今はそれでもいいよね。

 スマホも、ひなたも、あかりも、文彦も、結城も、今はなにもいらない。

 月明かりのなか二人であるくこの時間が、永遠に続けばいいと本当に思ったんだ。

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