高校生活⑤
「こんにちは、文倉さん。ごめんね、時間かかっちゃうけど」
薄い青色の壁紙がはられた相談室で、30前後の臨床心理士の女性はそう前置きをして話を始めた。
シューマンの『見知らぬ国』が流れる、わざとらしく穏やかさが演出された空間は、いつも足の裏がむずむずするような居心地の悪さを感じる。
検診を終えた後はいつもカウンセリングを受けているのだ。その後に診察だ。
話したことはそのままDrに伝わって、それでオレはこういう精神状態でこういう病気なんですよ、とDrが判断する。それってとても薄気味悪い。
今、この瞬間も穏やかなこの女性はオレの一挙一動をつぶさに観察しているんだろう。
実験動物にされているみたいだ。
実際、とても珍しい病気なんだから、そうなのかもしれないけど。
「いえ。大丈夫です」
ほほえみながら答える。
はじめは、検査が時間の大部分を締めていた。
数年過ぎた頃からカウンセリングの時間が大部分を占めるようになった。
いくら身体を調べたって、治る見込みなんてない。
オレがその事実を知らされたのは、高校生に上がってからだった。
確か、性適合に関して調べてDrにその事を相談したときだ。
症例が少なすぎるこの病気だけれど、それでも過去に海外でホルモン治療や外科的な治療を行ったことはあるらしい。
結果は、患者は全員死亡。うっ血性の心不全や血栓症の事例が多く報告された。
まるで身体自体が元の性別を拒否するようだったという。
だから、オレにそれらの治療を行うことは少なくても日本の病院ではありえないと、どこか気の毒そうに主治医は告げた。
既にその事実を突きつけられていた母は、過去その時、どんな気分だったんだろう。
今も仕事の忙しい合間に休みを作って、付き合ってくれる母はどんな事を考えているんだろう。
オレはすごく申し訳ないって思ってる。
だからこそ、包み隠さず質問や自分の感じた不具合や違和感は包み隠さず伝えているつもりだ。
オレはきっと”よい患者”なんだろう。
「友達とはうまくやれてる? ほら。なかなか難しい時期じゃない? 16から17歳って大人でもないし子供でない、みたいな」
定型的な、使い古されてカビどころか苔むしてそうな文句なのに、答えに詰まった。
一瞬結城のことが頭によぎった。『もう友達でもなんでもないんだから』
その後、国領のことがなぜだか頭に浮かんだ。友達でもなんでもないのに。
「……今の友達とはうまくやれてます。ただ、過去の友人とは決別しました」
結局、国領のことは言わなかった。当然だ。友達じゃないんだから。
CPはしばらく沈黙する。ただ柔和な表情でオレの瞳の動きを窺っている。
このやり方は好きじゃない。次の答えを急かされている感じがする。それならちゃんと促してくれたほうがいいのに。
診察まで終えると、母の車に乗り込んだ。
とても疲れた。朝の9時にきて、もう15時を回るところだった。
これだけの時間を費やして、得たものはいつもの漢方薬のみ。
正直なんだかなあって、思うよ。
「ちとせ、お腹すいたでしょ。どこかでご飯食べて帰ろうか」
エンジンをスタートさせながら母が言う。目の下にメイクじゃ隠せないくまができている。
看護師の仕事って、忙しいんだろう。でも、きっとそれだけじゃない。
「うん。でも、お母さんも疲れてない? 家に帰ったら私なにか作るけど」
「そう」ちら、と横目で母がオレを見る。車が動き出した。「ううん。やっぱり食べて帰ろ。ちとせにいつも作ってもらっちゃってるし。たまには、ね」
母がくすりと笑った。
「うん。美味しいものでお願い。私はなんでもいいけどね」
「なんでもが一番困るの!」
それからしばらく無言で車が走っていた。カーステレオはオレの好きなピアノをメインにしたインストメンタルバンドの演奏がかかっている。
とろけるような声なのに根底には荒々しさが渦巻いている男性ボーカルの曲も、透明な声だけど攻撃的な歌詞のバンドも、どこかひねくれた恋愛を歌う女性歌手も好きじゃない。
本当は、好きじゃない。ボーカルが無い曲が、オレは本当は好きだ。そんなこと言えないけどさ。
言っても仕方ないこと、共有できないことってどうしたってあるだろう。
「ねえ、ちとせ」
「ん?」
スマホをいじっていた顔を上げると、母が前方をきつく睨んでいた。たぶん、そういう顔をしていることには気づいていない。
「私って言わなくてもいいんだよ。それに、彼氏ができたって、言ってたよね」
「うん」
自分から話したのだ。オレは前髪をいじって、目元を隠した。
「お母さんは別に、女の子を好きになってもいいと思う。ちとせの身体は、女の子のまま変えられないけど、今どき変じゃないって、お母さん思うよ」
目元を隠したまま、一度深呼吸した。苛立った声にならないためだ。
母がオレを心配してくれているのは、痛いほど伝わっている。それがオレは嫌なんだ。そんな事伝えたって仕方ないだろう。だから、これはどうだっていいことだ。
「お母さん。私は、普通になりたいんだ。人と違うのは本当につらいからさ。普通の女として普通に生きて、普通に男性を好きになって、普通に就職して、それから……子供だって生んで、普通におばあちゃんになって、死にたい。私はもう大丈夫だから。中学の時は心配かけてごめんね」
女であることを認められない時期だってあった。
中学の時はずいぶんそれで母を傷つけた。
幽霊みたいに居ないもの扱いされたのは、人と違うとみなされたからだ。
そういうのは、もう嫌なんだ。個性なんていらない。
それで飯が食えるの?
だけど、あかりだけは違った。彼女だけは変わらずオレと接してくれた。
女としての色々なことは、その時ずいぶんあかり助けられたのだ。
はじめて生理が来て卒倒しそうになった時、助けてくれたのも、あかりだった。
母は忙しいから、仕方ない。
あかりは、でも、結城を選んだ。
オレは女であかりも女なんだから、仕方ない。
仕方ないことばっかりだ。
まあ、いいや。どうだっていいよ。
どうでもいいんだ。前髪越しに外を見ながら、何も言わない母に向かって投げた。
「私は大丈夫。心配しないで」
……。
「わかるー」
はずんだ自分の声がする。こういう声の出し方も慣れたなあ。
クラスで真ん中ぐらいの、目立たない女子グループ。クラスでの場所も本当に、真ん中。
窓側でもなく、廊下でもない。真ん中。
会話に応じながらも、席について本を読んでいる国領の背中がここからはよく見える。
肩下のつややかな黒髪……に消しゴムのカスがついている。
見た目だけなら、あいつの言う通りクラスの誰より整っている。
ありとあらゆる意味で、目立ちすぎている。
「ひなたってそうだよねー」
相槌を打った。
あいつはいつもひとりだ。
だけど――
「あ。国領さんがまた」
ニキビの目立つひなたも、そっちに目をやったみたいだ。
そりゃそうか。
「今わたしに消しゴム投げたやつ」
立ち上がって、大音声。
中性的な声だ。誰だって見るよ。
当然誰も返事をしないけれど、あいつは犯人がわかっているようで、足音を立てて、スカートをはためかせた。
まるで猫が走るみたいな動作で机の間を抜けて、男子の胸ぐらを掴んだ。
「木下」
国領が鋭く木下を睨みあげる。
「俺じゃねえよ」
木下が焦ったように一歩退く。国領の手が離れた。
木下は強いやつに巻かれるタイプ。要するにキョロ充。
自分でやるやつじゃない。たぶん、誰かにやれって言われたんだろうなって思う。
「動画も撮ってる。ツイッターで拡散してやる。つーか君のアカウント特定して晒し上げる。謝ったら許すけど、どうする?」
「ふざっけんなよ、国領!」
――だけど。あいつは、誰にも追従しない。
見ていると、すごくイライラする。なんで一人で平気なんだよ。
中学のオレと同じように、幽霊みたいな扱いを受けてるくせに。
気づけばあいつのことばかり目で追っている事に気づいて、それが余計に腹立たしかった。
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