高校生活⑥


 昼休みにラインで文彦に呼び出された。

一緒に御飯を食べよう。それと、この前のことを謝りたいって文面だった。

 学校の中で呼び出すのはやめてほしい。

 同じグループの子と、一緒にお昼を食べない理由を考えるのは大変なんだ。

 ましてやそれが彼氏に呼び出されたとなれば正直に伝えるわけにも行かない。


「ひなちゃん。えいちゃん。まつりちゃん。ごめん。私ちょっと先生に委員の仕事で呼び出されてるから。先にご飯食べといて」


「うん。わかったー。早く帰ってきてね」


 一瞬微妙な表情を浮かべたひなたが、すぐに笑顔に戻った。


「ごめんね」


 付け足して、申し訳無さそうな顔をしてみせる。

 教室を出て、図書館の裏に向かう。

 学校の端っこに独立して建っている、かなり年季の入った建物だ。

 結構距離があるし、周りが雑木林で鬱蒼としているから、あんまり人も近寄らない。


 教室のざわめきから遠ざかるごとに、心臓が落ち着いていくのが分かる。

 無表情で無愛想な顔に戻るこの瞬間は、誰にも見られたくない。

 

 ひなたがちょっと嫌そうな顔をしたのは、瑛花と茉莉と微妙に距離があるせいだ。

 仕方ないんだ。オタクグループでもない、かといって上位グループに行くことも出来ない。

 

 そんな中途半端な余り物が作ったグループだから、仲が良くなるわけない。

 茉莉はもっと上位のグループに行きたいって思ってるフシがある。

 おしゃれが好きなんだ。機会がありさえすれば、そっちと絡もうとしては失敗している。


 瑛花は本当はアニメとか、漫画についてもっと語りたいって思ってる。

 朝早く、オタクグループと楽しそうに話していて私達が登校すると気まずそうに戻ってきたところを見たことがある。


 ひなたは、誰にでもいい顔をする。だから、たぶん一番このグループに合っているのはこいつなんだろう。

 あれ。こいつの趣味ってなんだっけ。

 私は……本当は一人が好きだ。一人で音楽を聞いていられれば、それでいい。


 仲良くない私達は本当にくだらないことばっかりだ。

 プライドとか容姿のレベルとか保身とか、趣味とか好きな事とか、全部普通って泥で塗りたくって覆い隠して生きていくのは、嫌われたくないからだ。一人になるのは怖い。誰だってそうだろう、

 やっと手に入れたグループと、彼氏。普通の女子っぽい、なにか。

 それを手放したくないのだ。でもこうやって生きた先、一体何があるんだろうって時々思う。



「おまたせ」


 そんな事を考えながら、文彦に声をかけた。図書館のひび割れたコンクリートに背凭れてスマホをいじっていた彼が顔を上げた。

 ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。


「ごめん、呼び出しちゃって」

 

「ううん」


 オレも同じように隣に背もたれる。

 夏の木陰は風が通らなくて、じんわりと汗ばんでくる。

 セミが死ぬほど元気だ。

 交尾のために鳴いてるんだよって誰かが言っていたのをふと思い出す。

 生物は皆交尾がしたいのだ。なんかそれって気持ち悪い。

 頬を抑えた。

 少し、緊張もしているみたいだ。


「この前のこと、あれで気まずくなったら嫌だからさ。ちゃんと謝っときたくて。急すぎたよね、ごめん」


「……私もなんていうか…取り乱して恥ずかしかったし。謝らないで。大丈夫だから」


「良かった」


「うん。私も、ごめん」


 良かったって内心で胸をなでおろした。文彦は怒ってないみたいだ。

 そう。この前のは急すぎただけ。

 今度はうまくやれる。ちょっとずつ、普通になっていけば良いんだ。前髪をかきわけて、彼を見上げて、笑いかけた。「お腹空かない? ご飯食べようよ」


「ちとせ。ぼくの事好き?」


 影になった文彦が見える。近づいてきて、両肩を掴まれる。

 なぜだか彼が違う、何か、違う生き物のように思えた。


「え。なに? ………好きだけど」


「今度はちゃんと言うよ。ぼく、ちとせのことが本当に好きだ。だから、いいよね」


 このいいは、なんの良いなんだろう。

 分からない。オレは男だったはずなのに、文彦の気持ちがちっともわからない。

 まごついて、何も答えられないでいた。額から、汗が頬を伝って気持ち悪い。


 文彦の手が汗ばんでいて、気持ち悪い。腿の付け根に汗が滲んで、気持ち悪い。

 文彦は沈黙するオレの態度をイエスと取ったのだろうか。

 彼の顔が近づいてきて、ようやく、そういうことだと理解した。


「……ちょっ」


 待ってと言う間もなかった。さっき急ぎすぎたって言ったばっかりなのに!

 彼の唇の感触と、汗のしょっぱい味がして、鼻息が顔にかかる。

 大丈夫。大丈夫。ゆっくりと内心で言い聞かせる。今度こそちゃんと乗り越えなきゃ。


 二度目のそれは、一度目よりもじっくりと身体に染み込んでいく。

 意識的に、他人事のようにそれを見ていた。

 目を閉じた文彦の顔が、なんだか滑稽に見える。

 オレもキスする時こんな顔をしているんだろうか。


 ようやくぎゅっと目を閉じた。

 舌が這入ってきたせいだ。

 頭の中が熱くなる。もやもやした羞恥心で心臓がいっぱいになっていく。


 ひどく焦った。舌が載せられる感触があまりにリアルだったせいだ。

 他人事のフリは、一瞬で終わりを告げた。

 だめだ。このまま意識していたら、また拒絶してしまう。

 咄嗟に思いついた歌を頭の中に流した。マザーグース。

 男の子ってなにでできてる? たぶん、夏の蝉。


「ひっ」


 反射的に身体がのけぞる。女の子みたいな変な声が出た。

 文彦の手がスカートのなかにあった。慌てて手で肩を押し返しても、彼はびくともしなかった。


「ふ、文彦。流石に無理だよ」


「なんで? 良いって言ったじゃん」


「言ってない!」


 文彦の目は血走っていて、別人みたいだった。いつも頼りないぐらい、オレがなにか言えばすぐにごめんって謝る奴だったのに。

 そう思ってたのは自分だけ? 結局他人のことなんてなんにもわからない。


「ぼく、ちとせのこと本当に好きなんだよ」


「だから、私は――!」


 口をつぐんだら、彼の手が私の下着をずり下げた。

 本当は相変わらず心は男のままで、あなたで女になるための訓練をしています。

 

 そう、言うの? 

 文彦だって、オレだって相手のことなんてなんにも知らない。

 知ったふりをしているだけ。それなのに好きって言い合ってる。

 気味が悪い。怖い。気持ち悪い。逃げたい。性ってどうしてこんなにも気持ち悪いんだ。


「あー。いーけないんだー」


 その声は奇妙によく響いた。平坦な声だ。汗ばんだ湿気った空気が、一気に冷やされた気がした。

 文彦が驚いたように、慌てて体を離す。

 彼は気の弱そうな目にすっかり戻っている。オレも振り返った。


「国領かえで……さん?」


 オレ達とは違うクラスの文彦だけど、国領のことは色々知っているんだろう。

 悪い意味で、目立ちすぎるやつだし尾ひれのつきまくった悪い噂だって、きっとたくさん流れているんだろう。


「やっほう、山田文彦くん。先生が呼んでるから、探しに着た」


「え……? なんだろう。ぼくなんかやったっけ」


「さー? でも急ぎの用事って言ってたよ。早く行ったほうが良いんじゃない? 職員室。大迫先生ね」


「わ、わかったよ。ちとせ。また後で」


 彼がこっちを見る気配が合ったから、慌てて顔を伏せた。顔を見られたくない。


「うん。また後で」


 いそいそと素直に去っていく彼の背中を、かすれた声で見送った。

 冷えた空気と、汗と唾液と体温の残滓が、なんだかとてもばかばかしい。

 国領の嘘だって、彼は素直に信じてしまうのだ。


「……国領。学校では話しかけないんじゃないかったの。っていうか、話しかけないで」


「そうだっけ? まあ、良いじゃない」


 悪びれもせずへへ、と国領は笑う。


「なんで、いるんだよ」


「いやあ。わたしってばちとせちゃんのストーカーみたいなもんだし。あ。いつもストーカーじゃないよ。半分ぐらい? 半分ストーカー。たまたま、気になったから着いてきてみた」


「どうだっていいよ。笑いにでも来た?」


「笑わない。っていうか……」


「うるさい。言うな」


「涙ぐらいふけば?」


「うるさい」


「後、パンツ上げたら?」


「うるさい。オレはお前なんて大嫌いだ。全部、お前のせいなんだ。結城とうまく行かなくなったのだってお前のせいだ」


 こいつの言う通り上げるのも癪で、そのまま睨んだ。視界が滲んでほとんど何も見えない。だから、国領がオレと同じような顔をしていたのは気のせいなんだろう。

 お互い顔をくしゃくしゃにしてたら、それはきっとさぞかし間抜けな光景だ。

 しかもオレはパンツを膝上までずり下げてさ。



 結城?

 今更何を言っているんだって、どこかシラけた自分が笑う。

 国領のことを恨んでいる気持ちは、もうあんまりない。

 だってあれはいつかは起こることだったんだ。

 オレ自身が、結城自身が、お互いに違和感を持つのなんていつか起こることだった。

 そんな事、わかってる。けど、誰かを傷つけずにはいられなかった。


「否定はしなーい。わたしが悪かったでーす」


 それでも、ちっとも悪びれる様子がない。むしろにこにことしている。

 腹は立たなかった。


「否定、しろよ」


「べーつに。してほしいの? っていうかわたしさ、ドMなんだよね。ちとせちゃんに恨まれてるほうがぞくぞくするし、そのほうが良いかなあって」


「うわ。気持ち悪い。ドン引き」


 心の底から思ってることが、理性と協調のフィルターを通さずに口をついた。

 この感触はずいぶん久しぶりだった。

 彼がまったく動じないのが、なぜだかとても……嬉しかった。


「っていうかさあ、ちとせちゃん。今オレって言ったよね。めっずらしい」


「言ってない」


「言ったよ」


「私はお前なんて大嫌いだ」


「言い直さないでよ! ひっどいなあ! わたしだって傷つくんだよ」


 夏の空みたいに、彼女はけたけたと笑った。風が吹いてセミの声が止んだ。

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