今だけ
屋上へ向かって階段をかえでと二人で登っている。
午前中の終業式とHRを終えたばかりだ。
夏休みの計画を話しあったりする生徒達が、それなりに教室棟にはまだ残っていて、遠くからかすかに喧騒が聞こえている。
古い校舎の特別教室棟には、普段から音楽室を使う部活の生徒ぐらいしかいないから、今は人の気配はほとんど感じられなくて、私達の息遣いだけが響いていた。
「うへえ。つかれだあ」
前を登るかえでのスカートとリュックがゆれて、彼女が足を止める。
貧弱なかえでのことだ。大荷物を持って4階分を登るのはきついんだろう。
「リュック持つよ」
「ううん。手繋いでて」
「うん」
横に並んで、指を絡める。少し震えているのが分かってしまった。
「うへへ。ちとせちゃんと手つなぐのも久しぶりだなあ。ねえ、もう1回好きって言ってよ」
「…やだよ、恥ずかしいし」
「えー。言ってよ」
「好き」
「もう1回」
「好きだよ」
「もう1回!」
「調子乗りすぎ。好きだよ」
「結局言ってくれるちとせちゃんが好き」
「はいはい」
くすくすと、お腹がくすぐったくてどちらともなく笑いあった。
高校生活で残っているのは、結局かえでの手のぬくもりだけだったな。
一歩一歩、ゆっくりと階段を登っていく。失わないために登るのだ。
女になって、オレは男であることを失った。
中学では親友の結城を失った代わりに、あかりの隣に友人として居られた。
高校では、自分を殺して普通の友人と彼氏を得た。
得ては失って、その繰り返し。
きっとこの先も、人生の続く限り、そうやって何かを失っていくのだろう。
もしかえでが目の前から居なくなって一人取り残されたら。
ショックだろう。落ち込むだろう。泣くだろう。悲しむだろう。悼むだろう。
数ヶ月、数年、数十年、引きずるだろう。
でもそれすら、いつか思い出になる。
かえでと生きた日々が、人生の指針とか、心の片隅に置いておくとか、初恋を描く下らない歌詞みたいに、暖かなひだまりのお茶会話になる。
そうしてしまえるのが、たぶん、強さで、普通ってことだ。
そんなものから背を向けて、私は階段を登り続けている。
「ねえ、かえで」
ようやく、3階まで登りきった。かえでの手を強く握りしめた。
二度と離さないと決めたのは、この時だった。
「んー?」
「オレさ、かえでが小学生の時に余計なことしなければ、たぶん結城と付き合ってた気がする」
「えー? なにそれ」
かえでが横目で私を見た。ちょっと息が上がっている。
もうすぐ、屋上への扉だ。
「なんていうか、結城がオレの事好きって言ってくれれば、私も好きになってた。文彦から告白されて、正直あんまり好みじゃなかったんだけど、それだって時間をかければいつか最後まで行ってた気がする。そういう平和な未来だってあったような気もしてる。全部、かえでが邪魔したせいだ」
「そうだね。否定はしないよ」
「だから……ね」
言い終える前に、屋上前の鍵付きの扉についてしまった。
かえでがどさりとリュックを降ろし、中を漁り始める。
「ちょっと待ってね。これ持ってきたんだ」
やけにバカでかい工具を取り出して、にかっと笑う。
「まさか、壊す気?」
当然屋上への扉は、鍵がかかっているけれど、よく見れば古ぼけて少し錆びた南京錠がハマっているのみだった。
「壊さないと入れないよ。ここさ、南京錠だけっぽくて。ネットで破壊の仕方みたんだ!」
「破壊て。大丈夫かなあ」
まあ、いっか。これからやることに比べれば、些細なことだ。
……。
「うわー! 空が青い。ねえ、見てよちとせちゃん」
かえでがリュックを放り投げて、屋上の真ん中辺りまで駆け出した。
まるで海をひっくり返したみたいに死ぬほど真っ青だ。
「ここ来て、こっち来て!」
かえでが子供みたにはしゃぐから、私も視線を戻して、側へと立った。
かえでは屋上の真ん中でごろりと寝そべって、空を見上げている。
「なにやってんの、かえで」
「めっちゃ気持ちいいよ、ここ。一緒に寝そべろうよ」
「うん」
熱せられたコンクリで背中が熱いし、太陽は眩しいし、気持ちいいかは微妙なところ。
けれど、本当に、本当にきれいな空だった。
「綺麗だねえ、ちとせちゃん」
かえでが手を握る。私も空を見上げたまま握り返した。
「本当に。とても静か」
「このまま空に落ちていってしまえればいいのになあ、二人で」
「そうだね」
「ずっと、二人で居られたらいいのに」
「本当に、そう思うよ」
「さっき、なにか言いかけた?」
「良いよ、もう。今更恥ずかしくなってきた」
「だめ! ちゃんと言って。全部言って」
「やだよ」
「言わないと――」
かえでが体を起こしたと思うと、そのまま寝そべる私に覆いかぶさる。
手が脇の下に入り込んで、脇腹をくすぐられて、思わず声が出た。
「ひんっ、ちょ、やめ! くすぐったい! やめろってば! 言う、言うから!」
あは、あははって変な笑い声が口から漏れて止まらない。笑いすぎて涙出てきた。
「よろしい」
満足気なのは声だけで、顔はよく見えない。覆いかぶされたまま、首元にかえでの吐息を感じる。 かえではいつまでも顔をあげようとはしなかった。ぽつりとため息のように言った。
「体、やせたね」
「うん」
だから、私もそのまま話すことにした。
かえでの艶のある髪をなでながら、そっと抱きしめると、じんわりとした暑さで汗と汗が混ざってなんだかすっかり一つになれたような気がした。
「私さ、かえでみたいに、確固たる自分がないんだ。私を好きな人。嫌いな人。全部が全部、私を変えてきて、変えられてきた。かえでも、私を変えた。生きてたらまた変わっちゃうと思う。私は今しかないんだよ。かえでが終わりにするなら、私もずっと一緒にいるよ。今、かえでを大好きな今のままで終わりにしたいんだ」
「え?」
かえでが、素っ頓狂な声でがばっと顔を上げた。鼻先がくっつきそうな距離で見つめ合う。まんまるで、きょとんと見開かれた目。不思議と疑問が浮かんでいるその目だ。
「え?」
「えっと、ちとせちゃん。なんか、勘違いしてない? 私が今から何をするか分かってる?」
「え? だって、自殺配信をするって。だから屋上に来たんでしょ?」
「そうだよ。でも死ぬなんて一言も言ってないよ。だいたい本当に死ぬなら4階なんて不確実すぎる高さを選ばないよ。首吊のほうがよっぽどまし。それに、私は手段として自殺を選ぶことはあっても目的として自殺を選ぶことは絶対ないからね」
「…ごめん、ちょっと何言ってるか分からない。ちゃんと教えて」
「えっとね。ちとせちゃんをいじめてた奴らをさ、わたしをいじめてたことにして、そいつらの名前を言いながら、自殺配信するの。その時にお父様の動画も乗っけてさ。どこか適当なところで助けられたフリデモすればいいかなって思った。
わたし、ツイッターじゃそこそこバズってるからすごく話題になると思う。そうしたら、もうわたしが居なくてもちとせちゃんはいじめられないよ。そういう事を、やろうって思ってたんだけど……」
「は、早く言えよ! わ、私……わ、わた、し」
息が詰まって、覆いかぶさったかえでを押しのけて、慌てて起き上がった。
暑い。顔が暑い。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。何一人で盛り上がってるんだ。なんでかえではわたしだけを助けようとしてるんだ。ものすごく、恥ずかしくて、ものすごく腹が立って、勝手にぼろぼろ涙は出てくるし、最悪だ。
「わ、わあ! ちとせちゃん、ごめん!」
「ああ、もう最悪」
「怒った?」
「怒った」目元をぐいと拭って、かえでを睨む。「わたしひとりで盛り上がって、ばかみたい」
「本当にごめん。やるかどうか、ずっと迷ってたんだ。お姉さまにスマホとかを借りるのも、すごいぎりぎりでさ。お父様の件だって本当は今の今も迷ってて、ちとせちゃんが選んでくれなければ、きっとやらなかった。これだけは、本当だよ」
かえではそれだけを言うと、立ち上がる。
本当に、わかんないやつ。私が怒ってるのはそこじゃない。
でも、そうだった。はっきり、言わなきゃ。
私もすぐに立ち上がる。勢いのまま、かえでの背中から手を回して、痛いぐらいに抱きしめた。
「かえで。待ってよ」
「えっと……ごめん。いつも、そういうのわかんなくて、怒らせてる」
「謝らないで。そんなことに怒ってないから。でも、一人で格好付けてる事には怒ってる。私は、もうかえでを離してやる気なんてないから。私も、やる」
「本気? 顔とか、映すつもりなんだけど」
「いいよ。二人がいい」
「だって、ちとせちゃんは普通に生活したいんだって、何度も言ってたよ。こんなことして、意味があるかもわかんないのに」
「関係ないよ。そんなの」
「あるよ! わたしは、どうせどこにも居場所がないんだ。でも、ちとせちゃんは上手くやれてたじゃん。わたしと違って、わたしが居なくても、平和さえ手に入れば、ちゃんとやれる人なんだよ」
「うるさい。じゃあ、私が縛ってやる。私の横にずっと居たら良い。ごみみたいに依存しよう、かえで」
「ちとせちゃんめちゃくちゃ言ってるよ」
かえでの声が少し震えた。
「そうだよ。かえでが言ったとおり、私は面倒くさい女なんだ」
「こっち側に来ることなんてなかったのに」
かえでの体が震えた。泣いているのだと思った。
「私を変えたのは、あなただよ。大好きだよ、かえで」
「……うん。私も、大好き。愛してる」
本当に本当に、ろくでもない高校生活に一歩踏み出そうとしている。
今までだって最低だったけどさ。
私はかえでの背中に顔をうずめたまま、くすくすと笑った。
「かえで。普通の人達が貼った青春ってレッテルをさ。高校生は素晴らしいってクソみたいな価値観をさ、利用してやろうよ。すばらしい青春の権化みたいな私達が、自殺しようとする。この世こそ悪なんだってつきつけてやろうよ」
「いいね、それ。うける」
私は。
私達は普通の人が言う、青春時代は良かったっていうクソみたいな思い出話に中指を立ててやりたいのだ。
そうして、最低な高校生活をやめて、最悪な高校生活を歩み始めるのだ。
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