高校生活⑱

 国領のへなちょこな体躯から繰り出されるパンチなんて、たかが知れていて。

 伊藤はすぐに姿勢を取り戻し、彼女の胸ぐらをつかもうと手を伸ばし、叫んだ。


「国領、てめ、久々に会ったと思ったらいきなり何しやがる!」


「うっせーばーか! ハゲ! いつまでもくだらないことやってんじゃねー!」


 その手をひらりと躱して、国領がオレの手を掴む。

 考える暇なんて無かった。


「待てよ、国領!」



 彼の顔が怒りでぐにゃりと歪んで、みるみる赤くなっていく。ハゲタコみたいだ。


「やだよ! ちとせちゃん、逃げよう!」


 頭が真っ白だった。ただ、彼女に引っ張られるまま、勝手に足が動いた。


「ちょっ、なに!?」


 気づいたら、狭い廊下を駆け出していた。

 放っておけばよかったんだ。国領が勝手に喧嘩を売って、勝手に殴られるだけなんだから。

 心臓がひどくうるさかった。


 カラオケ店を飛び出して、人々をかき分けて、走る。

 雑踏の音も、群衆の姿も目の前から消えたみたいだ。

 彼女のひらひら揺れる長い髪が、夕方の茜色に反射してただ綺麗だった。


「ちとせちゃん、こっち!」


 息の上がった、それでも楽しげな国領がオレの手を引いていく。

 伊藤の気配なんてとっくにない。

 それでも、二人で走っていた。どこか遠くに行けそうな気がして、お腹の奥が熱くなった。

 きっと、嬉しかったんだと思う。



 気づけば、二人でカラオケ店からかなり遠く離れていた。

 大通りからも外れた、どこかの公園だ。かなり遠くまで走ったような気がする。

 膝に手をついて、大きく肩で息をしながら、なんとか顔を上げた。

 国領も真っ赤な顔をして、頬にも玉の汗が浮かんでいる。


「はぁ…はぁ…。国領、お前、なにやってんだよ」


「はぁ……はぁ…。あははっ。伊藤の顔みた?」


 彼女はお腹を抑えて、心底楽しそうに笑っている。

 さっきまでのお腹の熱は、夕方の風に攫われていったみたいで、一気に現実が戻ってきた。

 どうしよう。ひなた達置いてきちゃった。お金も払ってないのに!


「つーか…」息を整えて姿勢を正す。「なに、勝手に、喧嘩売ってんだって、きいてんのっ!」


「だってむかつくじゃん。ねえ、ちとせちゃん。このままデートしようよ」


 彼女が綺麗に笑って、オレに手を伸ばす。その手を見つめて、逡巡した。


「何いってんだよ。ひなたたち置いてきちゃったから……」



 戻らないと。そう、言えなかった。

 戻ればきっと伊藤が居る。今度は、お腹の奥に冷たい石が落ちたみたいに全身が重くなった。


「戻ってもつまんないよ」


「…つまんないとか、そういうんじゃない。国領はいつも勝手だよ。なんで助けたの

「わたしが、むかついたからだよ。それ以上でも以下でもなくて。ほら、行くよちとせちゃん」


 迷っていた手を、強引に掴まれた。

 抵抗しようと思えばいくらでもできた。


「ちょ、国領ってば! 待ってよ」


 それでも、また引っ張られるままに歩き始めた。

 目的地なんて知らないし聞こうとも思わなかった。


「やーだ。待たない」


「オレは、いつも冷たくしてるのに」


「? なんで? ちとせちゃん程わたしに優しくしてくれる人いないよ?」


 素の声が水みたいで、胸の奥の傷に余計にしみた。


「オレ、自分のことしか考えてない。国領に、学校じゃ話しかけるなって、言ってる。今日だって、偉そうにあれするな、この服着ろって、言ってる」


「そんな事気にしてたんだ、意外。わたしが嫌われ者ってことぐらい、分かってるつもりだよ」


「ごめん」


「どうして?」


「ごめん」


「なんで謝るのかわかんな――」


「ま、待って。振り返らないで、このまま、歩いて」


 振り返ろうとした彼女に、慌てて留めた。今の顔は、見られたくない。

 公園を出て、静かな住宅街に差し掛かって、物音は二人の足音しかしなかった。


「いいけど。ちとせちゃん、大丈夫? なんか変だよ」


「いいから。きにしないで」


 ああ、なんて情けない鼻声。

 こんなんじゃ泣いてるのがバレバレだ。


「もしかして風邪引いた? 戻ったほうがいい?」


 案外バレなかった。


「国領は、ほんと、わかってない」


「体調悪いんでしょ?」


「ちがう」


「え……じゃあ無理やり連れ出したこと怒ってる?」


「おこって、ない」


「ぜんっぜんわかんないよ、ちとせちゃん!」


 ああ、もう。

 国領は本当にもう!

 伝わんないのは、わかってたけどさ!

 こうなればもうやけくそだ。


「ああもう! じゃあはっきり言うよ! 言ってやるよ! 怖いんだよ! 伊藤がいるから帰りたくないって言ってんの! 後、泣いてるから振り返るのやめろよな!」


「あ。ほんとだ、目真っ赤だ」


 国領が手を離して、振り返ってきょとんとした目でオレを見下ろしていた。

 こいつ。


「! 見るなって言ってんじゃん!」


「後ろでそんな大声だされたら、誰だって振り返るよ!」

 

「何言っても、振り返らず歩いてくれればそれでいいの」


「あいかわらずちとせちゃんはむずかしいうことを言う」 


 不思議そうな顔をしながらも、国領はくるりと向きを変えて、言われたとおりに歩き始めた。

 素直では、あるんだ。素直すぎる気もするけど。何もかも置き去りにしてきたこと、不安に思う。

 それでも無言で握ってくれた手が暖かくて、なんだか笑えてきた。おかげで涙も止まってしまった。

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