ばいばい、ばーど
どうしようもなくひとりだ。
夏のような日差しが、じりじりと肌を焼いていく。
入院生活のせいで体重も体力もめっきり落ちて、数分走っただけで息が切れる。
それでも走った。息が上がって、吐き気が込みあげて、間に合うかどうかもわからない。
なんのためにって、思うよ。
私はかえでのことが好きだ。だから、かえでに会いたい。
『お前、記憶をなくしていた時の方が幸せそうだったよ』
走りながら、結城の言葉を思い出す。
幸せだった。皆が女として扱ってくれて、私も自分自身を最初から女だと思い込んでいた。
お母さんも、どこか安心した顔をしていた。心と身体がぴったり一致して、皆の見る世界と私の世界が重なる。それは幸福に違いない。
それで良かったのかもしれない。
結局本当の自分なんてどこにもないんだ。
関係性のなかで作り上げられる虚像のみを人格というのなら、私なんてどこにもいなくて良い。
今の形は、かえでが作ってくれた。かえでがずっと好きって言ってくれて、私はかえでの望む形になっていった。
私は結局、かえでの事が好きなんじゃない。かえでが好きで居てくれる私の形が好きなんだ。
違う。
私はかえでが好きだ。
小鳥みたいに透き通った声も、ずけずけした性格も、おしゃれに見えてずぼらなところも、彼女の描く漫画も、切れ長の目も、全部好きだ。
今のすべてが、好きだ。かえでと生きた今のすべてが好きだ。
もう、変わりたくない。変わればまた失ってしまう。そんなのはもういやなんだ。
わかんない。わかんない。どうすればいいか、わかんない。
走りすぎて沸騰しそうな頭の中で、かえでのことばかりを考えている。
好きなのかどうか、もうわからない。
ただ、祈っていた。
神様。
どうか、どうか、どうか。ずっとこのままで居させてください。
どうか。私を変えないでください。
この気持を抱いたままにしていてください。
かえでのことを、好きなままにしてください。
どうか。
……。
空港についた時、ようやく自分の格好の酷さに気づいた。
病院のスリッパのままって。
服はともかく、髪だってぼさぼさだし、顔は赤を通り越して真っ青だ。
すれ違うすべてが私のことをぎょっとした目で見てくるような気がした。
ああ、ばかだ。
行き先と時間は聞いていて、ターミナルも電光掲示板を見る限り合っているはずだけど。
こんな広い空港で、こんなたくさんの人が行き交う中で、スマホも持たずにどうやって出会うんだ。
もう、検査を通過してしまったのかもしれない。
知らない人ばかりの空港で、現実が背中にのしかかって、潰されそうに背中を丸めて無闇に歩いく。
油断すると、涙がこぼれそうだった。
「あ。ちとせちゃん来た」
ら。
「え?」
「もう。ちゃんとした場所も訊かずに飛び出していったでしょ? あかりちゃんが連絡してくれなきゃわかんなかったよ」
白いワンピースに身を包んだかえでが、にっこりと笑った。
現実感が全然なくて、人混みのなか、やけにくっきりとかえでだけが浮かび上がって見えた。
「かえで」
「うん。元気?」
昨日別れたみたいに、軽々しく。
かえでが片手をひょいとあげて、おどけた顔をしてみせる。
「元気だよ」
私も間抜けたように、ぼんやり答えた。
「じゃあ、帰ろっか」
「帰る?」
「うん。だって、迎えに来てくれたんでしょ?」
「迎え」
「違うの?」
「私は、かえでにあいたくて。好きだから、一緒にいたくて、だから、きた」
「うん。だから、帰ろう?」
「海外に、行くって」
「いいよ。一緒に逃げようよ、また。わたしはちとせちゃんと一緒に居られればそれでいいの。前も言ったよ。ちとせちゃんがわたしのすべてなんだ」
ずっと、かえでの気持ちを無視して好きって言わせ続けていた。
ひとりになったら、今度はかえでの気持ちを受け入れて、自分も好きになった。
私は、
空港の大きな天窓の外に、鳥が飛んでいる。どこまでも自由そうで、けれど孤独に見えた。
「嬉しいよ。嬉しいよ、かえで」
それからは、全てが滲んだ。
「な、泣くほど!?」
「うん。泣くほど嬉しい」
「良かった。じゃあ、逃げよう」
振り返りかけたその手を、捕まえる。そうするのもきっとこれが最後だ。「どうしたの? ちとせちゃん」
きょとんとするかえでの手は温かい。
ずっと離したくない。ずっと手をつないでいたい。
「ねえ。かえで。漫画描くのすき?」
「好きだよ。落ち着いたらまた描きたいな」
「将来漫画家になりたいっていってたもんね。かえでは成績も頭も良いし、漫画もうまいし、これからもきっといろんな世界があるんだろうね」
「やりたいことはいっぱいあるねえ。ちとせちゃんも応援してくれる? 一緒に暮らそうよ!」
「私が働いて、かえでが夢を追えばいいよ」
「それヒモだ! それじゃあ、家事ぐらいするよ。主婦業。ん? 主夫?」
「かえでは家事できないでしょ。ふたりでしようね。好き嫌いも、そろそろ直してよ」
「ゼンショシマス」
「かえで」
かえでの将来。未来。好きなら、いつまでも依存して破滅して、手元に留めておけばいい。
この手を離さなければ、いい。
「……っ」
かえでに抱きついて、キスをした。
短い、ついばむようなキスで、相変わらず私はキスが下手だ。
やっとわかった。私はかえでが好きなんじゃない。
「かえで」
そっと体を離した。かえでの匂いが遠くなる。
「お、おお? 人前で珍しいね? っていうか、いい加減泣き止んでよ! わたしがなかしてるみたいじゃん!」
「行きなよ。海外。今日はお別れしよう」
「なんで?」
「私は、ずっとかえでの事、縛ってた。好きを向けられて、居場所を見つけた気がしてた。幸せで、ずっと今が続けばいいって、逃げ続けたくて。変わりたくなくて、かえでの気持ちを利用してただけなんだ」
「なんで、そんなこというの。やめてよ。そんなのいいから、逃げようよ」
「だめ。もう、かえでの事好きじゃないから」
どっちの嗚咽かわからない。必死にしがみついてくるかえでの力が、骨をきしませて痛む。
彼女の涙が痛かった。それはきっとずっと目を背け続けてきた痛みだった。
「いやだ。なんで。なんで?」
「未来を二人でちゃんと生きたいから。だから今日はお別れしよう」
「お別れしたら、変わっちゃうよきっと。向こうで好きな人できるかも。ちとせちゃんも変わるかも。わたしのことどうでもよくなるかも。そんなの、やだよ。ちとせちゃんは、離れるのいやじゃないの?」
「嫌だよ。つらいよ。苦しいよ。怖いよ。かわるの、いやだよ。怖いよ。でも、」
一歩、後ずさる。唇の暖かさも冷めていくのが、辛かった。
視界はぐちゃぐちゃだ。かえではどんな顔をしているんだろう。
怒っても、傷つけても、悲しませても、言いたいことを言わなきゃだめなときが、きっと今なんだ。
もう空気なんて読まない。
「愛してる。かえで」
「……うん」
かえでが天窓の空を見上げた。秋の透き通った青だ。
「ちとせちゃん。私も愛してるから」
彼女の体温が遠ざかる。目は真っ赤で、けれどもう、泣いてはいなかった。
かえでは強い。本当は素直でいい子なんだ。誰も気づかないだけで。
だからきっと大丈夫だと思った。
「うん、知ってる。かえで、元気でね」
「またね。元気で」
「またね」
振り返らず歩いていく彼女の白いワンピースの裾が、鳥の尾みたいにゆらゆらと揺れている。
彼女の姿が見えなくなっても、私はそこに居た。一歩も動けなくて、
「う……う……あああ……うわぁああ……」
ひとりで膝を抱えて、子供みたいに声を上げて泣くことしかできなかった。
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