高校生活㉖

 かえでの真剣な横顔を、彼女のベッドから眺めている。

 借り物の少し大きな服と、コーヒーの匂い。彼女がペンを走らせる音。時計の音。

 心地の良い沈黙が辺りを満たしているここが、学校から一番遠い世界のように思えた。


 もしかしたら、今が一番幸せな時間なのかもしれない。

 ずっとこんな時間が続けばいい。

 かえでが漫画を書いて、オレが料理を作って。あいつが嫌いな肉を食べてもらえるように色々工夫しよう。他愛のないことを夜更けまで喋って、たまには服を買いに行きたい。

 おしゃれだって、いっぱいお互い楽しむんだ。夏休みが来れば水着を持って海にだって行きたい。そんな将来を妄想してる。


「んあーっ!」かえでが椅子に座ったまま大きく伸びをして、回転椅子を回してこちらを見る。「疲れた! あれ。ちとせちゃんもしかしてずっと見てたの?」


「うん」


「つまんなくない? 見てるだけって」


「楽しいよ」


「変なの」


「すごく集中してた。本当に好きなんだね」


 立ち上がって、かえでからパソコンを覗き込む。繊細でそれでいて可愛らしい絵が生き生きと描かれているのが見えた。男子学生と幽霊の女子恋愛もののようだった。


「好きだよ。現実でも気持ちが絵と文字で伝えられたらいいのに。そうしたら誤解されない」


「それは……どうかなあ。結局変わらない気がする」


 SNSでどうでもいいことで言い争ってるのを見るのなんて日常茶飯事だし。


「夢のない話。人間はわかりあえないのだ」


「……うん」


 屈託のない彼女の笑顔。それに吸い込まれるように手が伸びた。ほとんど無意識だった。

 座ったままの彼女を正面から抱きすくめる。真白い首筋から、かえでの甘い匂いがする。


「どうしたのちとせちゃん。そっちからくっついてくるなんて珍しいじゃん」


 かえでの落ち着いた低い声がして、彼女もオレの背中に両手を伸ばす。


「明日からどうやって生きていけばいいんだろう」


 皆から距離を取られた。気持ち悪いって思われた。

 それで、死にたい訳じゃない。生きたい訳でもない。

 悲しいわけじゃない。辛いわけじゃない。ただ、消えたいと思った。

 

 反抗出来る気もしない。耐えたいわけじゃない。かといって逃げる気もしない。

 今が満足なわけない。

 ないない尽くしが頭の中をぐるぐると回り続けている。変われないんだよ。もうどうしたらいいかわからない。

 子供みたいに、かえでにすがりついて泣くこともしなかった。

 

「大丈夫だよ。わたしがいるよ」


 肯定してくれる。かえでだけが、オレを男でもなく女でもなく、存在を肯定してくれる。

 オレは、もう、かえでしかいないんだ。

 顔を放して、見つめ合った。かえではただ優しく微笑んでいた。


「かえで。しようよ」


 かえでになら、全部を上げてもいいって、本気で思ったんだ。

 いつぞや、彼女が見たいって言ってた裸を見せたっていい。それ以上でも、なんでもいい。

 依存して、溶けて世界に二人だけしか居なくなればいい。


「てい」


 ぺちり、と酷く間の抜けた音がした。

 痛みおでこにあった。かえでが真っ直ぐにオレを見ていた。

 しばらくすると、じんじんと痛み始めたおでこに手をやると、熱を持っていた。

 


「……痛いんだけど」


「わたしはちとせちゃんとエッチしたいよ」彼女はさらりと言い放つと、立ち上がった。「でも、くだらない感情の通過儀礼にされるのなんてまっぴら」


 彼女の両手が、オレの肩を突き放す。間に出来た一歩の距離が酷く大きく感じた。

 見上げた彼女は、今まで見たことのない冷たい目をしていた。


「ごめん。かえで、ごめん。変なこと言った。ちょっと、疲れてたかも」


 取り繕うように口の端を無理やり上げた。へへ、と転んでも強がる男の子みたいに笑えたら良かった。


「なんで謝るの? わたしちとせちゃんは好きだけどちとせちゃんのそういうところは嫌い。もっと自分に優しくしなよ。普通にこだわって他人と比較ばっかして、自分のことは全然見てないじゃん。料理が上手くて、優しくて、気が利いて、顔だってわたしの次ぐらいに可愛いよ。それがちとせちゃんじゃん。それって普通より大事なことなの? そもそも、普通って何? いじめる奴らが正しいの? ねえ、教えてよ」


 かえでの口調は内容とは裏腹に、言い聞かせるように穏やかで、それが余計に胸に刺さっていく。

 しくしくと胸が痛んで、気づけば半ば叫ぶように言っていた。


「わかんないんだよ、もう。わかんなくなったんだよ。友達がいて、好きな人も居て、そんな風に過ごせたらって思ってた。女になんて、なりたくなかったのに」


「友達!」


 かえでが自らの鼻先をさして、にっこりして言葉を続ける。


「ちとせちゃん、わたしのこと好きでしょ?」


「……うん」


「女じゃなければ、わたしはちとせちゃんのこと好きにならなかったし。ほら、今だって、望んだ未来とそんなに変わらない。少しは自分のこと肯定してあげなよ。可哀想だよ、自分が」


「そう、かなあ」


 かえではいつもストレートだ。

 女じゃなければかえでとこうしていることもなかった。それだって、事実なんだろう。


「そうだよ。ほら、おいでちとせちゃん」


 かえでが一歩前に出て、オレの体を抱きしめた。背中に回った手が、ぽんぽんと何度も撫でてくれる。彼女の胸元に顔をうずめて、情けないぐらい落ち着いていく。


「情けないよね、オレ」


「別に。泣け泣け。いっぱい泣け」


「っ。うっさいな。泣かないよ」


「明日もさ、一緒に学校に行こうよ。わたしがなにかしてくる奴らには文句言うからさ」


「……ううん。オレが、ちゃんと、言う」


 何を言えるかわからない。

 それでもちょっとは進まなきゃって、思えたんだ。


「よしよししてあげよう」


 そう言って笑って、彼女が頭を結構強めに撫で回してくる。

 髪が乱れるのも、今はそんなに気にならなかった。

 心臓がどきどきしていたせいだ。たぶん、オレはかえでの事が好きなんだろう。


「ね、ねえ、かえで。オレさ、結局、男だった頃と嗜好変わらなくて……女が好きなままなんだけど。それだけ、なんか、いいたいんだけど。意味、分かる?」


「うん。わたしもちとせちゃんのこと好きだよ。性の対象って意味で」


「……もうちょっとオブラートに包んでほしい」


 くっついたまま言われるとめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。


「ちとせちゃん、顔真っ赤。ねえ、めっちゃキスしたい。していい?」


「……もうちょっと、雰囲気とか、シチュエーションとか大事にしてほしいんだけど」


「乙女か!」

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