高校生活㉕(知りたい)

トイレに入っていたら上から水が降ってきた。

 一瞬、理解ができなかったけれど外から聞こえた「女子トイレつかってんじゃねーよ」という笑い声が遠ざかっていく。声からして代田達か。案の定って感じ。


 セミの声と一緒に取り残されたトイレで、とりあえず、スマホの無事を確認してほっとした。

 ずぶ濡れになった髪と制服は、どうしようもないけど。

 放課後だからこの格好で帰るか、体操着に着替えるか。どっちにしても教室には帰りたくないなあ。

 

 今までクラスから孤立はしつつも、遠巻きに静観されるだけに留まっていた。

 微妙なバランスが崩れたのは、代田の彼氏によく声をかけられるようになってからだ。

 かえでにもちょっかいだしていたやつだ。こいつは、何なんだろう。孤立している女子に優しくしたらすぐに惚れてくれるとでも思っているんだろうか。


「俺、過去とか気にしないからさ。仲良くしようよ」


 とかなんとかクラスメイトの面前でオレの手を握ったりしてくる。

 いや、その後ろでお前の彼女すごい顔してるから。少しは空気を読んでほしい。


「いや……そういうの良いんで」



 整髪料の臭いがきつくてさっさとその場を立ち去ったけれど、それからも何度も声をかけられた。

 弱い立場の奴が好きなやつっているよ。

 こいつのせいでもともと孤立しているのに、他人の男を盗る女(男)って完全に敵認定されてしまった。


 ため息しか出ない。まあでも、大丈夫だ。これぐらいはまだ慣れてる。

 周囲に声がしないのを確認して、トイレのドアを開いた。


 うるさいと思ったら、セミが一匹トイレの中に侵入してきていて、鏡にへばりついている。

 交尾の相手を探しにこんなところまで飛んできて、誰とも巡り会えず無駄に死んでいく。

 なんか無性に哀れに思えてきた。外に出してやろうかと思う。


 でも、


「こ、こええ……」


 虫は死ぬほど苦手だ。

 よくみるとセミってぐろいし。

 トイレのドアを開け放ってから、セミを驚かそうと、手で仰ぐ。

 そいつは確かに驚いたんだろう。オレの顔めがけて一直線だ。


「い、いやっ」


 咄嗟にしゃがんだ。べちって間抜けな音がして、たぶん、トイレの入り口の壁に張り付いたんだと思う。

 心臓がばくばくで、顔も上げられない。怖ええええ! セミこえええ!

 たぶん、30秒ぐらいしゃがみこんでいたと思う。

 

「…なにやってんのちとせちゃん」

 

 呆れ混じりの、親しんだ声がして、やっと顔を上げられた。

 助かった。必死に身振り手振りしながら喚く。


「かえで! かえで! セミ、セミとって! 外に出して!」


「セミ? ああ。これ?」


 かえでは壁にへばりついていたセミをなんの気なしに掴むと、セミが怒ったような羽音を手のなかで立てる。それなのに意にも介してない。

 なんだこいつ、すげえ。

 

「外! 外にだして!」


 オレが必死に指差した窓を、彼女はあくび一つしながら呑気な足取りで向かっていった。


「はいはい、ちょっと待ってね」


 じじじっと羽音を立て、セミが飛び去っていくのを、ようやく立ち上がって呆然と見送る。

 なんか、どっと疲れた。服が体にへばりついて気持ち悪いし。


「はぁ……もう。恩知らずなセミだよ」


「それで、一体どうしたの?」


「セミが顔に向かってきて、すげえびびったよ。めっちゃ怖いよ、セミ」


「じゃなくて。その格好」


「なんかね」


 目をそらして、窓の外を見た。かえでに理由を説明するのが恥ずかしかったのだ。


「誰? 代田達? わたしの時と一緒でしょ」


「……まあ、たぶん」


「やり返そう」


 きつく目を吊り上げた彼女が、踵を返す。

 慌ててその腕を掴んで、こちらを振り向かせた。


「いいよ、大丈夫」


「なんで? やられたらやり返さないと、エスカレートするだけだよ」


 かえでは実際そうやって対処してきた。やられたら必ずやり返す。言われたら反論する。

 そんな彼女のことがいつも眩しかった。


「オレが男だって黙ってたのも、悪いよ。それに3年に上がればオレなんかに構ってられなくなるよ。みんな受験だし。あと半年我慢すればいいだけだから」


「なんかって言わないで。意味わかんない。我慢する理由がない」


「オレだって、かえでのこと、話しかけるなとか、言ってた。やられる側になったら、腹が立つって、なんか、違う気がする」


 理由を考えながらゆっくりと話す。かえでの目がますますつり上がって、怖いぐらいだ。そんなに怒ってくれなくていいのに。


「はあ? ちとせちゃんは、わたしに水ぶっかけたりした?」


「……それはしてないけど」


「じゃあ、ちとせちゃんはわたしのこと無視してた?」


「似たようなことはしてたじゃん。嫌いって何度も言ったし」


「それはその時本当に思ったからでしょ。そんなの別にいいよ。今はどうなの?」


「今は好きだけど」はっとなって口元を手で覆った。「違うくて。そういう意味じゃない」


「ほら、ぜんぜん違う。ちとせちゃんが悪い理由なんてどこにもない。やり返そう、ちとせちゃん」


「待ってかえで。話聞いて」またもや行こうとする彼女の手をぐいと引っ張ると、彼女が怪訝そうに眉をしかめる。

 だめだ。分かっていたけどかえでは、はっきり言わないと伝わらない。

 オレだって、自分がどうしてこんなことを言ってるか、自分で自分のことを理解しているとはいい難いけど、ちゃんと言葉にしないとだめなんだ。


「なに?」


 息を大きく吸い込んだ。胸の中にある真っ黒なもやもやに手を突っ込んで、形にしていく。

 うまく言葉にはできない。けど、どろどろのまま、自分でさえわけのわからないまま吐き出しても、かえでは受け止めてくれる気がしていた。


「オレ、お前みたいに強くないんだよ。今は相手から傷つけられる理由がちゃんとある。男だったから、オレが悪かったから。普通じゃないからって。

 そうやって、普通じゃないから仕方ないって諦めて、僻んでる。少し不幸な振りして不平不満だけ言ってるほうが、よっぽど楽なんだ。普通に立ち向かうなんて、オレは、弱いから、できないよ。きっとこの先もどこにもいけない。ずっとこのままだ」


 拗ねたように言って、かえでの手を離した。

 ださいな、オレ。本当にださいし汚いし、どうしようもない。

 涙が出そうで強く目を閉じた。


「大丈夫。わたしが付いてる」


 離した手を、捕まえられる。握られた手が暖かった。

 目を開けると、眉を上げて誇らしげに胸に手をやって、少しも揺るがないその瞳に射すくめられる。かえでは、それでもオレのことを真っ直ぐに見据えてくる。


 だからオレも、もっと自分の奥に手を突っ込まないといけないと感じた。

 もっと、奥。どろどろの汚いもの。手に取ってみるとそれは案外単純な形をしていた。


「かえでに憧れてたんだよ、ずっと。かえでみたいになりたかった。でも、オレはかえでみたいには、なれない」


 言い放った後は、少し体が軽くなった気がした。


「わたしはちとせちゃんのことが好き。いつも、それしか言えない。もっと、上手く慰められたら良いのにね。うまくいえないよ」


「いつも、言いたいこと言ってるように見えるのに」


「そんなことないよ」かえでが小さく首を横に振る。「頭の中にはいつも言いたいことがいっぱいあるよ。一部だけしか言えなくて、それで人を怒らせて、失敗したなあって後悔する。でも、それも仕方ないかなとも思ってる。漫画ならいいたいことをしっかり伝えられるからさ、好きなんだ。案外似てるのかもね、わたしたち」


「そう……かもね」


 そんな事ないって思う。どうしたって、かえでは強い。

 だけど、少し彼女に近づいた気がして、嬉しかったのだ。

 かえでの考えていることがもっと知りたいって、思った。


「っていうかさ! 風邪引くよ、ちとせちゃん! 体育着取ってくる! 話は後!」


「いや」かえでの手を、握り返した。「このまま帰ろう」


 濡れてたって平気だ。きっと。このまま行けるよ。


「大丈夫?」


「大丈夫。それで、ね」


 口の中でもごもごしてしまった。なんか妙に恥ずかしいな。

 頬が暑いし。かえでの目を見ないで、言った。


「かえでの家に行きたい。漫画、書いてるところ、見たい」


「それはいいけど。本当に大丈夫? 風邪ひかない?」


「大丈夫だよ。意外と体だけは頑丈なんだよ、オレ。かえでと違ってちゃんと食べてるから」


 心配そうな顔がおかしくて、くすくす笑う。かえでに妙な顔をされた。


「わたしそんなに変なこと言った?」


 そうだよね。かえでは案外心配性。

 小さな発見を喜んでる。そんなこと恥ずかしくて言えるわけ無い。


「言ってないよ」

 


 かえでの手を握って、トイレを出た。

 玄関に向かうと、靴箱に入れていたはずの靴がなかった。


「あーあ。やられた」


 まあいいや。裸足で良いよ。明日からはカバンに入れて過ごせばいい。

 お母さんには、ごめんだけど。  


「探そうよ、ちとせちゃん」


「良いよ。こういうのってどうせ見つからない。体育館シューズで帰る」


 ちょうど洗おうと思って、持ち帰るところだった。

 ださいけどね。


「じゃあわたしも」


「気を使わないでいいのに」


 かえでが自分のシューズ入れから真っ白なシューズを出して、それを履いた。


「そんなんじゃないよ。ちとせちゃんに少しでも近づきたいだけ。わたしが、そうしたい。っていうか、うちの指定シューズださいよね」


「すげえださい」

 

 力を抜いて、自然に笑えた。かえでの言う通りかもしれない。案外、同じこと考えてる。


「よし」


 彼女が手にもった、履いてきたであろう靴を手に持ったまま、外に出た。

 どうするんだろう、それ。

 

「ふんぬっ」


 変な掛け声とともに、かえでが靴を放り投げる。へなちょこな投げ方で、勢い余って姿勢を崩して派手に尻もちをついた。

 校門の向こうの住宅地へ、靴が放物線を描いてすっ飛んでいく。


「かえで!? なに考えてんの!?」


「…なんとなくやりたかった?」


 お尻を撫でながら、照れくさそうに立ち上がる。


「なんで疑問形。もう……。探しにいくよ、ほら。もったいないことしないの」


「良いの良いの。帰るよ、ちとせちゃん」


「良いのかなあ」


「良いの! 心配性だなあ、ちとせちゃんは」


 かえではおかしそうに、声を上げて笑った。

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