高校生活⑲
「ありがとう、国領。おかげで落ち着いた」
国領と一緒に目的もなく街を歩いた。降りたこともない知らない街だ。
彼女の手は暖かくて、いつまでもこの非現実感が続けばいいと思うけど、それは無理だってことぐらいはわかる程度にはオレだって大人だ。
スマホが震えている。
見知らぬ住宅街でオレは彼女の手を離して、スマホを握った。
「そろそろ戻ろっか。みんなが心配してるよ」
いつまでも遊んでいられない。国領だってそれぐらいわかってくれるだろう。
「え。やだ」
「はぁ!?」
「戻る理由ないし。ひなたちゃんも案外今頃うまくやってるかも」
「理由って。迷惑かけちゃうじゃん。ほら、見てよ」
スマホのラインのメッセージ画面を国領に見せつける。
『どこにいるの?』
ひなたからのメッセージが届いていた。
「泣くほど怖かったのに? 伊藤だってまだいるかも」
「……オレの気持ちは今関係ない。もう平気だよ」
「ふーん。ちとせちゃんさ」
国領が無表情にオレに一歩近づく。
「な、なんだよ」
「とうっ」
完全に不意打ちだった。素早くオレの手からスマホを奪い取る。
一瞬、思考が完全に止まってしまった。
「え?」
「これでよし」鼻歌交じりに異常に手慣れた手付きで入力し終えた彼女が、にっこりとオレにスマホを手渡す。「はい。返すね」
「おまっ、なにした!?」
「なにって、ちゃんと挨拶しといたよ。ちとせちゃん気にしそうだし、そういうの」
慌ててスマホの画面を見る。ひなたへメッセージが送信されている。当然、オレのアカウントで、だ。
『体調不良なのでかえでさんと一緒に帰ります。大変申し訳ございません』
「オレはかえでさんなんて言わないし、こんな丁寧な言葉使わないけど」
「失敗。えへへ」
「……えへへじゃないから。なんでこんなことしたの」
怒るべきなんだろうし、実際怒ってるんだけど、それを表出するのもなんだかアホらしく感じている。国領の奇行に慣れつつある自分が確かに居る。子供のイタズラを叱る気分に近い。
「したかったから」
「はぁ……。いつもそれだよ」
「ちとせちゃんの方こそ、いっつも他人の目ばっか気にして! 怖い場所に戻ろうなんて、意味分かんない。そんなに自分のことないがしろにして、生きてて楽しい?」
「はあ? うっさいな。もういいよ」
今から訂正のラインを送ることだって出来る。けど、なんだか疲れてしまった。
生きてて楽しいかだって? ほんとむかつく。付き合ってらんないよ。
実際カラオケ店に戻りたくなんてないし、踏ん切りがついたのも事実だ。
国領から視線を外して、そのまま駅の場所を検索した。案外近いみたいだ。「帰る」
「ちとせちゃん、ごめん。怒った?」
踵を返して歩き出したオレを慌てて追いすがる国領の声がする。
止まってやる気も、振り返ってやる気もない。
「怒った」
「ごめん」
「別に」
「ねえ、ごめんってば」
「ついてくるなよ」
「帰るなら、道一緒だよ」
「……」
「ねえ、ちとせちゃん、聞いてよ」
「……」
「ねえ、ねえってば。待ってよ!」
いつもの余裕ぶったところはまったくない。震えたみっともない声だ。
ああ、もう。本当にオレもどうかしてる。
足を止めて、振り返る。
追いついた彼女が、走ってきた勢いそのままに、オレの体を抱きしめた。
国領の柔らかい匂いがする。
「……なに。痛いんだけど」
無遠慮に背中に回された手が、オレの身体を締め付けている。痛いぐらいだ。
保育園のとき、送迎の朝に別れたくなくて、こんな風にお母さんにしがみついていた。
そんなことをふと思い出した。
「ちとせちゃんがつらいの、嫌だ。なにも悪くないのに」
「オレは大丈夫って言ってるじゃん」
「大丈夫じゃないよ。ちとせちゃん泣いてた。なんで戻ろうなんて言うのか、全然わかんなかったんだよ。だからこれで合ってるって思った。でも、また怒らせた。ごめん、ちとせちゃん。ごめんね」
彼女の白い首筋が目の前にある。体温がすごく熱かった。
「変なやつ」
「わたしのこと嫌わないで」
「……そんなに怒ってないよ。むしろ、感謝もしてるんだ。戻りたくないのは、本当だからさ。1回離れな。ほら、人通ると色々やばいしさ」
「……うん」
国領が身体を離し、オレを見下ろす。
くしゃくしゃの顔で、今にも泣きそうだった。
「帰ろう、国領。一緒に」
こいつはオレを苛立たせたり、暖かくさせたり。笑ったかと思えば泣き出したり。
本当に変なやつで、鬱陶しい。
でも、嫌いじゃないんだ。
国領の送ったメッセージに、『カラオケ代、今度払います』と付け足した。
……。
「げ。まじかあ」
雨粒が鼻の頭に落ちて、空を見上げた。真っ黒な雲が空を覆っていて、雷がごろごろとなっている。
地元の駅について、お互いの家へ向かう途中だった。
今日は降らないって言ってたのに。あっという間に辺りはバケツを引っくり返したような雨が降りはじめた。服も髪もびしょ濡れだ。最近多い、ゲリラ豪雨ってやつだ。
「ちとせちゃん、雨! 雨だよ!」
国領が楽しそうにはしゃいで、くるくる踊るようにステップを踏んでいる。
まるきり子供だ。
「傘ないし!」
「あははっ! すっごい濡れる!」
「笑ってないで走るよ!」
まあもう手遅れなんだけどさ。
言いつつも、オレも諦め気味に歩いている。
「うわあ、髪が重い!」
「それだけ長ければね。あーあもう。オレもぐっしょりだよ」
「良いじゃん、楽しくて。子供に戻ったみたい」
「風邪でも引かなきゃね」
「じゃあ、わたしの家行く? 駅から近いし。着替えと傘ぐらい貸すよ」
「ほんと? 借りていい? 家まで遠いし」
少し悩んだけど、行くことにした。
濡れたまま15分ぐらい歩いて家に帰ることだって、オレは全然平気だ。
平気なはずだった。またひとりになるのが怖くなってしまったのは、きっとこいつのせいだ。
「うへー下着まで濡れてる。脱いじゃおう」
国領の声は相変わらず弾んでいる。
結局彼女の家の玄関に入った時には、服や服ををしぼれそうなぐらいびしょ濡れになってしまった。
「って、国領! ここで脱ぐの!?」
彼女がTシャツに手をかけたまま、まんまるな目をこちらに向けた。
「脱がないと、廊下がびしょびしょになっちゃうよ?」
「浴室で脱ぎなよ、せめて。オレの見ていないところで」
「? なんで?」
「オレ、もともと男だよ」
「知ってるよ。それがなに? 更衣室だって一緒に普通に使ってる。今更だよ」
「国領はオレが男だったって知ってるから」
「うん、だから?」
「だから……気持ち悪くないのかよ、オレのこと。女のふりを、してる。みんな、オレのこと気持ち悪いって言うんだ。普通じゃないからさ」
視線を落とすと、水滴がぽたぽたと涙みたいに落ちて来た。
ああ、この沈黙が嫌だ。こんな事誰かに話す気なんてなかった。
色々ありすぎて心がぐちゃぐちゃで、油断するとまた勝手に溢れてきそうだった。
「ちとせちゃん、上むいて」
国領の手がオレの両肩に触れる。雨とまざった人間の匂いがした。
「な、なに」
彼女の唇がオレの唇に触れた。
小鳥がついばむようなそれが、下手くそなキスだっていうのは、オレにもわかる。
だって、
「……痛い」
じっとりと睨んでやった。がっつり、歯と歯がぶつかったから。
「ぷっ」と、国領が吹き出した。「やっぱり上手くできないや。意外と不器用なんだよ、わたし」
「知ってる」
「あーもういいや! わたしはちとせちゃんが好き。それしか言えない!」
そう言って笑って、彼女は地味なTシャツとデニムをさっさと脱ぎ去っていく。
キャミと、その下の子供っぽい下着だけになって、それも勢いよく脱ぎ去ったら青白くて華奢な全身が顕になる。
見てはいけないものを見ている。そう思っていても、目はそらせなかった。
「ここで、脱ぐなって!」
「なんで? わたしはちとせちゃんに見られるの全然嫌じゃないよ。お風呂ためてくるから一緒に入ろうよ」
そう言ってさっさと浴室へ裸で向かっていく。
「……洗濯機にいれろよ」
ため息交じりに彼女の衣類を拾う。唇にじんじんとした熱がいつまでも残っていた。
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