ばいばいなつ

 警察に保護されて、真っ先に駆けつけたのはかえでの父親だった。

 面会室に入るなり、眉一つ動かさず開口一番に告げる。

 

 「かえで。いい加減私に恥をかかせるのはやめてくれないか」


「…ごめんなさい」


「手続きは済んでいる。帰るぞ」


「でも、ちとせちゃんが、一人になっちゃう」


 かえでが言うと、彼女の父は始めてそこで私を見て、汚物でもみたように眉をしかめた。


「文倉さん。今度娘に近づいたら訴える。今回のことは君が娘を誘拐したようなものだ。君がいるから、かえでは傷つくんだ」


 担当の婦警が反論してくれたような気がしたけれど、そこからはよく覚えていない。

 かえでにもう会えない。その事実だけが頭の中をぐるぐると回り続けていた。

 気づけば母やなぜだか先生が迎えに来てくれていて、警察署から帰る頃にはすっかり夕方近くになっていた。

 

「何も言わなくていいよ」


 帰り道。車の横で優しげに言う母に、打ちひしがれた。

 担当の婦警も、お母さんも、先生も、みんな優しい。

 そっと言い聞かせるように、「辛いことがあれば言うんだよ」と私のことを気遣うセリフを吐く。


 優しい目に晒されて、なんのバツも受けずに全てが許されていく。

 怖かった。それを受け入れて、ほっとしてしまう自分が身の毛がよだつほど嫌で、醜かった。

 私は間違ってない。運転しながら鼻をすするお母さんを見ていると、何も言えなかった。

 

 家に戻ると、すぐに学校に復帰した。

 先生にも母にもまだ休んでも良いって言われたけれど、すぐにでも登校したかったのだ。

 かえでとの連絡がずっとつかない。ラインも、ツイッターへのDMも、一切反応がなかった。


 もしかしたら学校に来ているかもしれない。そんな期待も、すぐに打ち砕かれた。

 席だけがぽつんと残っていて、けれどもいつも置きっぱなしにしていたシューズやいくつかの教科書類が全てなくなっている。


「ひなた」


「…………なに?」


 久しぶりの登校で、奇異の目にさらされているのは感じていた。

 一挙一動を、クラスメイトが見つめている。くすくすと笑うでもなく、奇妙な動物を見るような目だった。

 私がひなたの側に立つと、彼女が露骨顔を反らした。

 無視をされるかと思ったけれど、低く返事をしてくれて、内心で胸をなでおろす。

 ぎりぎり、つながってくれている。


「かえでは、学校に来てない?」


「来てない。体調不良だって。っていうか事情は文倉さんのほうがよく知ってるでしょ。わたしに訊かないで」


「そっか」


「ごめん、わたしちょっと忙しい」


 そう言いつつも、ひなたは席から離れようともしない。スマホをいじっているだけだ。

 つまりはもう話しかけるなってことだ。


「ああ、うん。ごめん」


 かえでにも、似たようなことを私は言った。

 あの時守りたかったものは、もう全部なくしてしまったけれど、それで良かったのだ。

 私は変わったのだから。引き換えに得たものが、きっと私の全てだった。


 薄い笑みを貼り付けて、私は席に戻る。

 笑みを浮かべたままて下を向くと、穴の底に落ちたような孤独が全身を覆った。


 全部ウソだ。

 変われてなんかいない。かえでが居たから変わった気になっていただけなのだ。

 一人に戻ればまた、こうして俯いたまま人の目に怯えている。


「よ。文倉さん。おはよ」


「……うん」


 代田と取り巻きの二人が私の席に歩み寄ってきて、にやついた顔で私の頭に手を置いた。


「やるじゃん。学校さぼって家出なんて。すげー噂んなってるよ」

 

 首ごと動かすように、乱暴に撫でられる。

 視界がぐるぐると回って、クラスメイトの何人かの好奇と蔑んだような目が刺さった。


「やめてよ」


「楽しかった? 変わり者同士仲いいんだよね」


「だから、なに」


「転校しちゃうんだってね、かえでさん。寂しいね。つーか高校生にもなって家出とかださくね? 女二人……違うや、あんた男だっけ。二人で何してたの? ぶっちゃけヤった?」


「さあ。普通にぶらぶらしてた」


 張り付いた愛想笑いが取れない。何笑ってんだよ。言い返せよ。

 かえでと過ごした時間を笑われているんだよ。それで良いわけないだろ。


 あいつは、ろくでもないやつだ。空気だって読めない。雰囲気だって大事にしない。人を傷つけもする。わがままだし、結局肉を食べやしなかった。

 それに、笑ったり泣いたりするし、人を好きになったりもする。ふつうの、人だ。


「…何にニヤニヤしてんの、気持ち悪い」


「しってるよ」


 お弁当にはお肉を入れてくればよかったな。

 それに、2つもいらなかった。

 まあ、いいや。

 ひとりでクラスの片隅で、ひっそり暮らしていく。それでいいよ。

 ひとりじゃ結局何も出来ないんだから。

 空気の読めないかえでさんは、こうして私達の前から姿を消した。



 ……。


 泥まみれになったお弁当箱とか、相変わらず野菜のみのおかずで作り続けてる私の事とか、破られたノートとか、見つからない靴とか、机の落書きとか、色んなものがどうでもよくて、かえでが居なくても当たり前のように時間は流れていく。気づけばもう明日は終業式だ。


 クラスは浮足立って、みんなが笑顔だ。私も笑っていた。

 学校を終えて一人で玄関を出る。

 空を見上げると、バカみたいに青々と綺麗で目を細めた。


 悲しくなんてないし、怒ったりもしない。

 どうでもいいことを積み上げて、どうでもいい人間になればいい。

 このまま心が消えて、ついでに存在も消えないかなあってぼんやりと空を見上げている。

 私の中で少しずつ、かえでの事が思い出になっていくことだけが、ひたすらに辛かった。


 かえでのことは、クラスでは話題に出す人もほとんどいなくなった。

 私だけが、あのセミのうるさいトイレと、汚い漫画だらけの部屋に閉じ込められてるみたいだ。

 もし私が殴り返せるような人間だったら、あの父親の脅しなんか無視してかえでを探しに出かけていたのだろうか。

 かえでだったら、今の状況を見て、怒るだろうな。

 殴られたら殴り返せって言うだろう。



「ああ、またやってしまった」


 気づいたら、かえでの住んでいたマンションの前に来ていた。。

 まただ。無意識にやってしまう。

 実際、これまで何回かチャイムを押した事はあるのだ。

 結局それに応じる者はいなかったけれど。

 苦笑いを浮かべて踵を返す。私はいつまでこんなことを続けてるんだか。


「あれ、ねえ君」


「え?」


 かえでによく似た声だった。

 すぐに、足が止まった。


「あ。やっぱり君だ。君、あれでしょ。文倉さん! かえでの友達の」


 その女性は25歳位に見えた。

 すぐにかえでの姉だと分かった。

 首筋を出したショートカットに、黄色の大きなイヤリング。

 活発そうなデニムパンツが、屈託のない笑みによく似合っている。

 全体的な雰囲気はかえでによく似ている。

 けれど、釣り眼がちだったかえでとは違い、垂れ下がった優しげな目元が父親にそっくりだった。


「もしかして、かえでのお姉さん……?」


「そうそう。よく分かったね。あたし、烏山さくらっていいます」


 ずい、と身体を無遠慮に寄せ、にっこりと見下される。

 ゼラニウムの香水の匂いがした。

 妙に距離が近くて、無遠慮に足から頭のてっぺんまでを行き来する視線は不快じゃない、

 不思議だ。


「私……ええと。よろしくおねがいします?」


「会えて嬉しいよ! 妹と仲良くしてくれてありがとね!」


 洋画みたいに大げさなハグをされて、頬に軽いキスをされて直感する。

 ああ、この人間違いなくかえでの姉だ。


「い、いえ」


「あ。大丈夫だよ。あたしは旦那いるし。そもそも男が好きだし。浮気じゃないからかえでは怒らないと思うよ」


「……なに言ってるんですか。別に、私達はそんなんじゃないです」


「照れちゃって、可愛いんだ。っていうかあれでしょ。かえでに会いに来たんだよね?」


「あ……」

 

 言葉に詰まった。会いたい。そう言いたいけれど、父親の冷たい目が頭にちらついた。

 沈黙を彼女がどう捉えたかは分からない。慈しむようにゆっくりと頭を撫でられて、さくらさんは続ける。


「ごめんね。かえではもうここには居ないんだ。体面を傷つけるって言う、一番やっちゃいけない父の逆鱗に触れちゃったし、しばらく実家からは出られないと思う。

 知ってると思うけど、金の力で全寮制の高校を確保してるんだ。君たちは永久に会えないのだよ!」


 相変わらず、撫で続けられている。演技じみた大仰な口調はやっぱり父親にそっくりだ。

 違うのはその隅々に、かえでが発するような楽しげな音色が混ざっているところだろう。


「そう……ですか」


 分かっていたことだ。それなのに、全身から力が抜けるように俯いた。

 あの汚い漫画の部屋は、もうないのだ。


「……ねえ、ちとせちゃん。実はさ、今日君に会えないかなーって思って、ここに来たんだよ。まあ、会えたら良いし、会えなかったらそれまで。コイントスみたいなもんだよね」


「どういう意味ですか」


 私が首を傾げても、さくらさんは返事をしなかった。

 代わりに肩から下げていたブランド物のバッグから、さらに小さなポーチを取り出した。

 ポーチから取り出したのは、半透明ケースに入った、マイクロSDカードのようだった。

 それを軽く振って見せて、薄ら笑いとともに肩をすくめる。


「かえでから預かってきたの」


「かえでが?」


「我が家に関わる、すごく大事なデータって言えばきっと分かるよね」


「証拠……」


 かえでの言っていた、誰にも見せられない『証拠』のデータ。

 さくらさんは満足そうに何度もうなずく。


「受け取るかどうかは任せるだってさ。あいつ昔からへたれだからなあ。臆病だし。肝心なところで、トリガーは彼女任せってありえなくない? びびってんだよ、あいつ」


 臆病でへたれ。そんな顔なんて知らない。

 あ。やばい。少しお腹がもややする。まさか嫉妬してるの? こんな時なのに。


「わ、私が決めるんですか?」


「そ。もし受け取るなら、明日の終業式でかえでに会って、どうするべきか直接聞いて。皆に挨拶をするために最後の登校をする予定だから。父はそういうのだけは気にする人だからね。

 もし受け取らならないなら、何事もなく、世はすべて事もなし。ま、あたしとしてはどっちでもいいけどね」


 声を上げて、本当におかしそうに笑う。

 クリスマス前のこどもみたいな表情だ。


「なんでさくらさんは……そんなことするんですか? データの中身、知ってるんですよね」

 

「かえでには、色々つらい思いさせちゃったからね。罪滅ぼしでもある。後、ぶっちゃけ結婚してもう独立してるからどっちでもいいっていうのもある!」


「あの……」


 やっぱりかえでの姉だよこの人。呆れてじっとりした目になっていたせいだろう。

 さくらさんは慌てて「それだけじゃないよ!」と付け足した。


「受け取っても、受け取らなくても、ちとせちゃんだけは絶対助けるってかえでが言ったんだよね。他人なんてどうでもいいって顔してた妹がだよ。それなら、協力してあげようって思ったんだ」


 私はためらいなくカードケースを受け取った。

 もし立場が逆なら。

 かえでならこうすると思ったのだ。


 迷っているなら、私が背中を押す。その先が、どこであろうと。

 私達はきっとそういう仲だ。

 


「ありがとう、ございます」


「本当に良いの? 詳細は聞いてないけど、きっとろくでもないことに巻き込まれるよ。ちとせちゃんだって、無事じゃすまないかも」


「巻き込まれたいんです」


「さすがかえでの恋人。クレイジーだねえ」


「そうかもしれませんね」


 結局、かえでの助けがないと立ち上がれないままの私だ。

 生きていくのが下手くそな私達は一体どこへ向かうんだろう。

 どこへ行けるんだろう。

 思い切り、夏の空気を吸い込んだ。

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