高校生活⑧
今思えば、だけれど。このときに引き返しておけば誰も傷つかずに済んだし、あかりともずっと友人でいられたのかもしれない。だけどそれはもう、ありえなかった話だ。
国領かえで。オレはこいつのことを何も知らなかった。こいつがモンスターだって事に気づいたときには、事態は取り返しのつかないことになっていて、何もかも遅かったのだ。
…
自分のなかで周期が来ている事に気づいていた。
嫌なことや、考えたくないことがあると、いつもこうやって妄想に逃げている。
目を閉じたまま、ベッドの中で指を動かした。
妄想の中のオレは男のままだ。
ただ、大人になったそれは見たことがないから曖昧な形をしている。
「……」
対する頭の中のあかりの白い身体も、やっぱりどこかぼんやりとしている。豊満といってもいい、体つきなのは服の上からでもわかる。
だけどどちらもはっきりと見たことがないものだ。
「……っ」
あかりのことを思うと、体内に余計に熱がこもったようだった。息が口から漏れて、水の音がした。
結城はやっぱりオレのことをよくわかっている。こうして今でも彼女の事を考えて、しているんだから。
吐息が大きくなる。口から漏れる声が上ずっていく。上って、上って、上って。
ふと、急に何もかもがどうでもよくなった。文彦の目つきを思い出したのだ。
「最悪」
オレだって、文彦と同じような目をあかりに向けているんだろうか。
オレは女のなのに。
あかり。会うのが、怖いよ。どうすれば好きな気持ちが消えてくれるかわからないんだ。
……。
「早く来過ぎた」
つぶやきは、雑踏にのまれていく。オレは駅の前のを行き交う大勢の人々を眺めながら、何度もスマホに目を落としている。
ひなたが好きだった小川先輩に声をかけられたらしい。朝からテンションの高いメッセージが何度も行きかっている。
『でもだめだよね。私なんか、目小さいしブスだし』
そんな自虐的な文面すら、どこか楽しげに踊って見えるから不思議だ。
『そんなことないよ。ひなたは笑顔が素敵だし、鼻筋も通ってる。ブスじゃないよ。きっとだいじょうぶ』
「そんなことないよ」がいつでも欲しいひなたは、だからこそ後の二人と相性が悪い。だからこそ、そんなことないをくれるオレに、べったりしたがる。
教えるべきなんだろうか。ひなた。そのやり方間違ってますよって。
生まれた時から女の癖に。少し、腹立たしい。
はーあ。
ため息が出た。
なんだか無性に悲しくなったのだ。
恋愛どころか、性別すらふらふらしているオレが何を言ってるんだって、こっちこそ自虐的な気分にもなる。
でも文章でのやり取りは好きだ。会話と違って、じっくりと答えを考えられる。
瞬時に判断した正解と不正解。言わなきゃよかった。言えばよかった。不安な気持ちばっかりが、会話の後には湧いてくる。
30秒ぐらいたって、すぐに返信が来た。
アプリを開かず、通知文だけで内容を見る。
『ちとせのほうこそ目すっごい大きいし、かわいい…』
途切れているけれど、後の内容は大体想像がつく。結局のところ、ひなたは褒められたいから、相手を褒める。1年生の時に知り合って、観察しつづけて、気づいたことだ。
彼女との不毛なやり取りにもいい加減慣れてきた。だから、ここはまた褒め返すのが私としては正解なんだろう。けど、返信はしないことにした。
出かけることは伝えてあるし、大丈夫だろう。
今日はあかりに会う。学校でのオレは、今だけは遠ざけたいのだ。
スマホを手に持ったまま、周囲をみやった。
同じように工事中の白い壁にもたれている、待ち合わせと思しき男女が幾人もいる。時間を見ると約束まで後15分程あった。
家が隣なのだから、本当は外で待ち合わせをする必要はあんまりない。
が。そんな事できるわけがない。
当たり前だ。結城に見られたら、また何を言われるかわかったものじゃない。
あかりは、この前の出来事をなんとも思っていないんだろうか。結城の言葉で、オレがあかりに気持ちがあることは、わかっているはずなのに。それでも一体何を考えて、未だにオレと関わりを持とうとするんだろうか。
あかりのことが、全然わからない。
それなのにこうやって足を運ぶ自分も、わからない。いや、わかる。未練だ。女々しい。
結局ラインだって、あれからは一度も返していない。国領を通じて待ち合わせ場所を聞いたのだ。
そわそわと駅前の時計とスマホを何度も往復しながら待っていると、
「ちとせちゃん!」
国領が駅から手を振りながら出てくるのが見えた。
彼女はオレを見つけると犬みたいな満面の笑みを浮かべて走ってくる。
後ろで一つにゆるくまとめた黒髪が、尻尾みたいに揺れている。
予想通り、というのか。
ずいぶんフェミニンな私服だ。国領らしい趣味だ。
長めの丈の黒いワンピースが膝までのジャンパースカートになっていて、白いレースのインナーを合わせている。ぱっと見、おしとやかなお嬢様みたいな服装だ。中身はともかく。
「あかりはまだみたい」
隣に並んだ国領が、にっこりと返した。
「うん。ちとせちゃんその格好……」
頭の上から足元までさっと見られたのがわかる。
「なに。変?」
「似合ってる。でもなんか、意外な趣味だね」
「別に。どんな格好しようが私の勝手でしょ。あかりと買いに行った服なんだよ」
目をそらしながら答える。国領の言うとおりなのだ。普段はいつもシャツにタイトデニムみたいな、ともすれば男子みたいな恰好ですごしている。楽をしたいのもあるし、やっぱり、今でも服の趣味はあんまり変わらない。スカートなんて制服の時ぐらいだ。
だけど今日はプリーツスカートにボーダーのトップスを合わせている。結城とこじれる前に、あかりに選んでもらったものだ。可愛いって、言ってくれたんだ。
「ねえ、ちとせちゃん」
国領がオレと並んで立った。
手が彼女の体温を感じる。ふんわり柔軟剤の匂いがした。
「ん?」
「好き」
「嫌い」
「もう! たまにはデレてくれてもいいじゃん!」
「やだ」
「いじわる。私は毎日毎晩ちとせちゃんの事を思っているのに」
「思わなくていい」
「いじらしくて、頑張ってて、ちとせちゃんはえらい。わたしだけは認めてあげる」
「……こんなことほめられてもうれしくない。大体、私には文彦がいるんだよ。むしろ軽蔑されるべき。それに、認めてくれるのは国領だけじゃないし」
はっとなった。こんなこと言わなくていいのに。
国領と話しているとついペースが乱れてしまう。
「あかりちゃんも?」
「……さあね」
「そうかなあ? あかりちゃんそういう風に見えないけど」
それは皮肉交じりではなく、純粋に疑問という風に国領が首をひねっている。
だからこそ、余計に腹が立ったのかもしれない。
「あかりのこと、悪くいわないで」
つい、口調がきつくなった。
「私はちとせちゃんに幸せになってほしいだけだよ。それ以外は何にもいらないの」
「なんでそこまで言うのか分かんな――」
それ以上は言えなかった。「ちーちゃん! かえでちゃん!」あかりの声に振り返った。
少し向こうから、人の群れに混じって歩いてくるところだった。
これ以上話は続けられない。最後とばかりに、国領を睨むと、彼女はふにゃりとだらしのない笑みを浮かべた。こいつ喜んでるし。
「待たせちゃった?」
時間ぴったり。オレと国領が首を横に振った。
あかりの私服はロゴTシャツにショートパンツ。すごくラフな格好だけど、彼女のスタイルも相まって、女らしいところが余計に強調されている。
「今来たところ。あかりちゃん。ちとせちゃん連れてきたよ」
「ありがとう、かえでちゃん。ちーちゃんも、ちょっと久しぶりだね」
あかりが近づいてきて、にっこりされた。今ではあかりのほうがずいぶん身長が高くなってしまったことに少し胸が痛くなる。下手したら10cmぐらい違うのかもしれない。
「うん。久しぶり」
「ぜんぜん返信してくれないんだもん!」
「…ごめん」
「ショックだったんだよね。しょうがないよ。ちーちゃんほっぺた大丈夫だった? あいつ、女の子の顔を叩くって、ありえなくない? わたしとちーちゃんの仲なのに、あんな事言うなんてわけわかんない」
しょうがないんだろうか。
今ここにオレが居るのも、しょうがないんだろうか。
じゃあ、あの時、結城と言い争いなんかせず、オレを引き止めてよ。
そんなこと、口が裂けても言わないけどさ。
「大丈夫。痣もすぐ消えたから。あかりこそ、結城は、良いの? 怒られない?」
「大丈夫。女同士でどうこう言う方がおかしいから。ちーちゃんだって、今は彼氏がいるのにね。
ねえ、ちーちゃん知ってる? 結城って意外と嫉妬深いんだよ。この前も、今日は友達と一緒に帰るって言ったら相手誰? なんて聞いてきてさ。ちょっと束縛入ってるよ」
顔をしかめているけれど、どこか弾むような声音でもあった。
「あかりは、美人だし、不安になるんだよきっと」
結城の話を、どこか惚気じみて話あかりを見るのは、痛かった。心臓が締め上げられて、息が詰まる。たぶん、心が痛いんだ。でも大丈夫。顔には出さないで居られる。オレは女だから。
ひなたに返すように、あかりにだって褒めて返せる。
オレはちゃんと女やれてるよ。
あかりに、オレが元々男だなんて。オレが君のことを好きだなんて、今更触れてもらいたくなんてない。
あかりがオレを女として扱うなら、それでいいんだ。
それならずっと友人としてそばに居られるだろう。
これが正解なんだ。
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