第16話 それからの私は黙々と地味ではあってもひたすら働いた。
それからの私は黙々と、地味ではあってもひたすら働いた。
うちに住み込んでいた中岡さんが体調を崩した旦那さんと暮らす事になり、うちを出たのもこの頃だ。
毎日いてくれた人が、週に4日通う人になった。
最初はとても痛手だったが…家事が出来ないわけではない。
中岡さんが休みの日の家事のペースが掴めるまでは、仕事の量を調整して慣れるようにした。
貴司は大学でも優秀で。
夏休みの間に海外へ行ったりもして、祥司さんの会社の勉強もしているようだった。
頼もしい息子との二人での生活。
それはとても静かで穏やかで…
…何か物足りないとしたら…
明るさだったのかもしれない。
時々…華穂が生きてくれていたら…と、ふと叶わない夢を思って見たりもした。
そんな時には…広縁から庭を眺めた。
よく…あそこで貴司と華穂が桜を眺めていた…
とても仲のいい兄妹で。
あの光景が…私にはとてつもなく美しいものに見えていた。
ずっと…見ていたい光景だった。
貴司が大学を卒業する頃、東海林家から連絡があった。
娘が短大を卒業する頃には良縁となるようにしたいですね、と。
…すっかり忘れていた私は、貴司に誰か恋人はいないのかと問いかけた。
だが、貴司は今の所は。と、首をすくめるだけだった。
好きな人がいれば…その人と一緒になってもらいたい。
そう思ったのに…貴司にはその相手もいないと。
東海林家の娘はたいそうな美人だが、性格がキツイと噂を聞いていた。
貴司は優しいから…尻に敷かれてしまうのではないだろうかと思うと、決まってもいない縁談に胸を痛める日々が続いた。
本人も、許嫁と結婚するのはいただけないとでも思っていたのか…
「婚約しなければいいだけの話ではないですか?」
何とも…のんきにそう言い放った。
やがて貴司は祥司さんの会社を継いだ。
社長となって…恐らく陰で文句や悪口、嫌味なども言われるだろうと思っていたが…
辻さん曰く。
「なんのなんの…驚きの対応ですよ。何事があっても、笑顔で飄々とかわされておられます。」
貴司に…そんな才能があったとは。
「その対応のおかげか…拍子抜けした社員たちは、反対に貴司さんに付くようになりました。」
「…そうですか。」
最初から苦労の連続だと思っていた私は、その言葉に少しだけホッとした。
これから幾度となく困難はやって来るだろうが…
まずは…社長就任…おめでとう、貴司。
貴司は私の自慢の息子だ。
誇りでもある。
本当に私を労わり、大事にしてくれる息子だが…
それは、貴司が社長になって四年目の春だった。
「…貴司。あなたの言ったアメリカ土産は、コレですか。」
「母さん、そんな失礼な言い方ないでしょう。」
私はあからさまに…嫌な顔をした。
海外出張から帰って来た貴司は…予定より一日遅れて…『土産』を持って帰った。
「森崎さくらさん。結婚前提で付き合う事にしたから。」
結婚前提!?
この…私の目の前にいる…キョトンとした子供のような子と!?
「…森崎さんの前で言いたくはないですが、あなたには婚約者がいるでしょう?」
貴司にその気がないのを知っていながら、私は東海林家の娘の話を出した。
「母さん、何度も言いますが…私は婚約した覚えはないですよ?」
「あなたは仕事が面白いのかもしれませんが、桐生院がどうなってもいいと思ってるの?」
出来れば…出来れば、貴司の好きなようにさせてやりたいとは思う…
でも。
この子では…
「あのっ!!」
突然、貴司の連れて帰った『森崎さくら』さんが大声を出して、私も貴司も肩を揺らした。
「あ…あ、すみません…あの、あたし…分からないなりに、一生懸命頑張ります。」
「…何を頑張るおつもり?」
「何を…」
「まだ、高校生ぐらいじゃないの?」
「…16歳です。」
じゅ…16!?
私もその歳で結婚はしたけれど…
こんなに幼かったのだろうか。
私が16歳の時はともかく…この森崎さんは、驚くほど幼く見える。
貴司…あなたは…まさか…
幼い子が好きなのでは…
「…学校は?」
溜息交じりに問いかけると。
「通信教育で、高校卒業課程は修了しました。」
意外な返事が返って来た。
16歳で…すでに高校卒業課程を終えている…
その辺はいいとしても…
「あなた…」
「とにかく、さくらちゃんには今日からここで暮らしてもらうから。」
私が森崎さんにあれこれ尋ねようとした所で、貴司が間に入った。
そして、アクビを押し殺しながら。
「疲れたので休みます。おやすみなさい。」
私と森崎さんに頭を下げた。
「ちょ…ちょっとお待ちなさい。貴司。」
「明日にしましょう。では。」
「……」
あえて見ないようにはしていたものの…
目の前の森崎さんは、大きな目で私を見ている…
お願いします。ここに置いて下さい。と言わんばかりの目だ。
嫌味のように大きなため息をつこうとすると…
「うっ…」
突然…森崎さんが吐き気をもよおした。
バタバタと足音をたててトイレに行く姿を追った。
すぐさま私の頭の中には…まさか…まさか…と…
「貴司!!ちょっと降りて来て!!」
私は二階に向かって大声を出した。
こんな声を出したのは…いつぶりだろう。
階段を下りた貴司は、すでに寝間着姿だった。
結婚したいと思う相手を放って寝てしまうなんて、優しいと思っていたのに…なんて男だろう!!
「森崎さん…妊娠してるんじゃないの?」
「…え?」
貴司はとても驚いた。
この顔を見たのも…いつぶりぐらいだろう。
「客間に敷布団、二枚重ねて敷いてちょうだい。」
「…はい…」
私は最初…貴司が連れて来た森崎さんに…ヤキモチを妬いたのだと思う。
そして、正直…こんなちんちくりんな小娘、貴司には相応しくない、と。
だけど…もしかしたら妊娠しているかもしれないと思った瞬間…
私は…
早く…早く。
と…思った。
貴司が…結婚した。
式は挙げず、婚姻届だけを書いた。
親戚には言っていない。
東海林家から何か問い合わせでもあれば、一気に知られてしまう事だろう。
その時まで…このまま平和でいてもいいのでは…と思った。
貴司の妻となったさくらは…とにかく明るかった。
華穂よりも五つ年下だが、16歳の華穂はこんな風な子だったんじゃないか…などと思うと、自然と笑顔が増えた。
分からないなりに華の事も勉強してくれた。
活け方は独特過ぎて、人前に出すには勇気のいるものだったが…
それさえ、私を笑顔にしてくれる出来栄えだった。
どうしたら、こんな活け方であんなテーマになるのだろう。
以前は、サルビアをふんだんに使って…タワーリングインフェルノ…と。
意味を聞くと『そびえ立つ地獄』と言われた。
「地獄に行った事があるのですか?」
「まさか!!雰囲気!!です!!」
「……」
私には、赤い格好をした子供達が組体操をしているようにしか見えなくて陰で笑ってしまった。
今日さくらが活けたのは…赤いガーベラだった。
それも一輪だけ。
「テーマは…ロックスター。」
「…これがですか?」
「うん。だって、燃えるみたいな赤なのに、可愛かったり優しかったり力強かったりするんだもん。」
さくらの解釈は…私にはない物ばかり。
いつか…展示会に一緒に出せるといいのだけど…
その段階になるまでは、まだまだ時間がかかりそうだけど…
さくらを育てるのは楽しいと思った。
そして…さくらのお腹の子も順調に育っているのが…私には最高に幸せだった。
貴司と…さくらの子供。
なんて…なんて素晴らしいのだろう。
私にも…もうすぐ幸せがやって来る。
そう…思っていたのに…。
「お義母さん…許して…」
「…許す?何を…」
それは…貴司と買い物に行って、たくさん買い過ぎたベビー服をさくらと二人で見ていた時だった。
さくらが突然…泣き始めたのだ。
私は隣に座って手を握ると。
「あらあら…どうして泣くの…お腹に良くないですよ?」
さくらのお腹を触った。
「何か辛い事があったの?貴司とケンカでも?」
「…ううん…貴司さんは…ずっと優しい…」
「もしかして、検診で何か…」
「ううん…順調って…」
「…じゃあ…いったい…」
そばにあったティッシュボックスを取って、さくらの涙を拭いた。
「初めてのお産だものね…誰だって不安だわ…でも、大丈夫よ。ずっとついてるから。」
そうだ…私も不安だった。
跡継ぎを産んでみせる。と息巻いていたものの…
いざ出産が近付くと不安定になったものだ。
そんな私の味方になってくれたのは、両親でも祥司さんでもなく、中岡さんだった。
私はできるだけ、さくらの力になりたいと思っていたが…
いつも明るく元気なさくらが、こんなに泣くほど不安になっていたなんて…
気付いてやれなかった事に胸が痛んだ。
「…ごめん…お義母さん…」
さくらの涙が止まらない。
私はだんだんと不安になってしまった。
本当にいつも明るく元気な子なのに…
いったいどうしたのだろう。
きっとこれは…ただ事ではない。
まさか、貴司と別れたいなどと言うのではないだろうか…
さくらの涙を見ていると、悪い想像ばかりをしてしまった。
「さくら…何があったの?」
「あたし……」
「……」
「…赤ちゃん…違うの…」
「…違う?何が…」
「…貴司さんの…赤ちゃんじゃないの…」
「…………えっ……?」
「ごめんなさい……」
「……」
さくらの告白は…私の頭の中を真っ白にした。
この衝撃は…あれだ…
ハルさんに、長男は祥司さんの子供だと言われた時の衝撃と似てる…けど…
…もっともっと…もっと大きい…
眩暈がおきそうだったが耐えた。
さくらのお腹の子供が…貴司の子じゃない…
それは…
私が大事に育てようとしていた夢を打ち砕く告白だった…。
「…貴司は…この事を…」
震える声で問いかけると…
「…知ってる…」
「……」
「知ってて…あたしと結婚するって…言ってくれて…」
バカな…という思いと…なぜ…?という思いと…
「…ごめんなさい…ごめんなさい…」
私が呆然としている間も、さくらは泣いて謝り続けた。
そんなさくらを見ていると…嘘をつかれたとか、裏切られたという気持ちより…
…可哀想でたまらなくなった。
「…父親は…誰なんです…?」
「……」
「もしや…事件に…」
「違う…」
「…ちゃんと…好きな相手の…子供なの?」
「……」
私の問いかけに、さくらは随分時間が経った後…小さく頷いた。
「どうして…」
好きな相手の子供…そう聞いて、私はすぐさまハルさんの奥様を思い浮かべた。
祥司さんの子供がどうしても欲しかった、と。
家のための結婚を強いられた身でも、それだけは譲れなかったのか…
私は…あの時はただただ驚いたが…
冷静に考えると、羨ましくなったのも事実だ。
好きな男の子供を産む…
…女にとって、それはこの上ない幸せのはずだ。
「どうして、ここに来たの。」
さくらの手を強く握って言った。
「…え…?」
「その人と、どうして一緒に産んで育てようとしなかったの。」
「……お義母さん…」
「今でも、その人の事を好きなんじゃないの?」
「……」
何を思い出したのか分からない。
私の目からも涙が溢れた。
たった一度のくちづけ。
本当は…私はあの男の子供が産みたかったのではないのか?
なのに…不貞をしなくて良かった…と、自分に言い聞かせて。
恋に縁がなかった。
そう決めつける事で…私は自分を守った。
「今からでも、その人の所へ…」
「もう…戻れないよ…」
「どうして。」
「…あたしが妊娠したこと…知らないし…」
「え…?」
「いいの。あたし、彼と一緒にいたら…好き過ぎて…壊れそうで…壊しちゃいそうで…」
「…バカだね…さくら…」
さくらの不器用さに、腹が立った。
さくらは…まるで私だ。
なぜ心を隠すの。
壊してしまいそうなほど好きな相手なら、それを素直に打ち明けて飛び込むべきなのに。
「苦しいぐらい好きなのに…どうしてその人から離れたりしたの…」
「だって…」
「貴司が、その人の代わりになれると思う?優しいだけの男で、つまらないでしょ?」
「何…何言ってんの…お義母さん…自分の息子に…酷いよ…」
貴司は…
もしかすると、跡取りの事を考えて…さくらを引き受けたのかもしれない。
そこにあったのは、愛ではなく…契約だったのでは…?
「…そうだね…でも、私はさくらが可愛い。どうか…本当に愛する人の所へ…」
私は…さくらの背中を優しく触りながら言った。
「ダメなの…あたし、彼の赤ちゃんなんて…」
それでもさくらは…頑なにそれを拒んだ。
「…さくらには、幸せになって欲しい…子供の事なら…心配しなくていいから…さくらは好きな人の所へ戻っていいんだよ…」
その時…私の中に、色んな想いが湧いていた。
さくらには、幸せになって欲しいと本気で思い。
貴司には…私のために跡継ぎの事を考えてくれたのなら…と、それはそれで愛しさが湧き。
私は、さくらに…
「私に打ち明けた事を貴司には言わないように。」
酷な…秘密を持たせた。
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