第12話 あれ以来、ハルさんとは一度も会わなかった。
あれ以来、ハルさんとは一度も会わなかった。
私は祥司さんと結婚し…かれこれ5年が経とうとしている。
だけど…私には妊娠する気配さえなかった。
どうしても跡継ぎが欲しい両親は、私のいない時に祥司さんに愛人に産ませろと説得しているようだった。
最初から…私が悪いと決めつけられている。
もしかしたら、祥司さんに問題があるかもしれないのに。
どうして女はこんな時にすぐ悪者にされるのだろう。
まさか血の繋がった両親までが、私を悪者にするなんて。
私は毎晩布団の中で泣いた。
なぜ…なぜ私には子供が出来ないのだろう。
「お嬢さん…あまりお気になさらない方がいいですよ…」
親子でうちに住み込みで働いている、中岡さんが慰めてくれた。
ご主人は一人で遠くに働きに行っておられて。
会うのは年に数回。
そんな中岡さんには、二人の娘さんがいる。
年に数回しか会わないのに…二人も。
もう、私に残されているのは…跡継ぎを産む事しかない気がして。
私は憑りつかれたように神社にお参りに行ったり、病院に通って相談したりもした。
そのおかげかどうか…
結婚して6年。
22歳の時に…私はようやく妊娠した。
恋とか愛とか…そんな物はすでに私の中には存在していなくて。
ただ、自分の責務を遂げられる喜びを感じた。
なのに…
私は…妊娠四ヶ月で流産してしまい…
祥司さんには…余所で男の子が産まれた…。
悲しかった。
毎日泣いて過ごした。
そんな私に遠慮する事なく、両親は祥司さんが余所で産ませた男の子に名前まで付けた。
もはや私は桐生院の一人娘の気がしなかった。
もしかしたら、ここの人間なのは祥司さんで…私はただの欠陥商品…
ここにいる資格なんてあるのだろうか…
一応私を気遣ってくれ、まだ若いから気を落とすなとは言ってくれたが。
だが…やっと出来た命を失くして…私の心は折れ掛けていた。
そんな時…中岡さんが言った。
「お嬢さん…本当にその子は旦那様の子供なんでしょうか…」
「…どういう事?」
「お金目当てで、そう言ってる可能性もありますよね?」
「…どうかしら…」
中岡さんは…私の味方だった。
両親から、祥司さんが産ませた子供の世話をするように言われたらしい中岡さんは、コソコソとうちから出稼ぎに行くような形で、祥司さんの愛人の家に通った。
…愛人『達』の…だ。
そして…ちくいち報告してくれた。
「貴司さんの母親は、お金次第で桐生院に養子に出してもいいと思ってるようです。」
「…我が子をお金で売るなんて…信じられない…」
「本当に…」
「…他にも、いるんでしょう?何人いるの?」
「…大丈夫ですか…?」
「知っておきたいの。」
「……」
中岡さんが教えてくれたのは…祥司さんには、三人の息子がいるという事だった。
だが、『貴司』の母親以外とは縁が切れていて、目下祖父母と両親の目当ては『貴司』らしい。
「他の二人は…いつ産まれたの?」
「…一番最初の子は、旦那様が二十歳の時のようです。」
「二十歳…?じゃあ…もう12歳?」
「ええ…そして、その次が…25歳の時のようです。」
「…そう。じゃあ…12歳と7歳の子供がいるのね…」
私と、初めて会った頃。
祥司さんは、すでに二人息子がいた…。
私との間に子供が出来なかったのは…やはり私が出来にくい体質なのだろうか…
何としても…
何としても、子供を産まなくては。
この頃の私には…
桐生院の娘だというプライドだけが。
自分を奮い立たせていた。
祥司さんに…
彼の愛人達に…
負けてたまるか…と。
跡取りなどいなくても、私が立派に桐生院を守ってみせる。
結婚して10年経った頃には、私の中に諦めの文字が強く浮かんで来て。
まだ26歳とは言っても、一人流産した事でもう妊娠は無理なのかもしれない…と思い込んだ私は。
とにかく…華の道を歩くために、がむしゃらになっていた。
祥司さんは華道には全く興味を示さないようになり、むしろ彼の才能は父が道楽で始めた映像の会社で開花した。
株式公開をして多くの社員を持つ会社になり、祥司さんは自ら外国にも足を運んで大手の映画会社などと契約を結んだりもした。
私も生徒さんを多く抱え、時には展示会や講演のために全国に飛ぶ事もあった。
「雅乃はすごいじゃないか。」
親戚からもそう言われるようになり、祖父母も表立って私に文句は言わなくなった。
養子を取れ…とも。
私が頑張れば頑張るほど、祥司さんとの間に溝が出来た。
どうも彼は仕事をする女は好きではないようだ。
寝室はとっくに別になっていた。
と言うより…祥司さんはあまり帰って来なくなっていた。
それでも離縁しろと両親が言わなかったのは、父の会社をかなり大きくしてくれているのが祥司さんだったからだ。
どこに泊まっているのかなど、気にもしなかった。
赤い唇で甘える女の所だ。
寂しくはなかった。
寂しいと思う暇を作らないほど、華の事を考えていた。
看護婦になりたいと思った事を忘れるほど。
あれを思い出すと…ついでのように蘇る思い出が私を責める。
…一度だけのくちづけ。
私は顔も名前も思い出さないようにしていた。
彼は、亜津子ちゃんの義理の兄。
そう思う事で、自分を戒めた。
忘れられるはずがない恋心だと知っていながら。
あの時の感触が、私が一人でも立っていられる支えになっていると知っていながら…。
「おめでとうございます。」
「……え?」
その時の私は、酷くマヌケな顔をしたと思う。
体調不良が続いて、まさか…と思いながら訪れた病院で…思いがけぬことを言われたのだ。
妊娠?
祥司さんとそういう行為をしたのはいつだっただろう。
酔っていた彼が部屋を間違えて入って来て。
「ああ…雅乃か。おまえでもいい。」
そう言った時…私は反対に。
それはこちらのセリフだ。と、思う事にして耐えた。
やらせてやってもいい、と。
嫌悪感が湧くほど嫌いな相手じゃない。
だけどすごく好きなわけでもない。
父の会社を大きくしてくれた人。
恩はある。
私は私で上手くやっているのだ。
何も気にしない。
私は妊娠した事を中岡さんにだけ告げた。
両親にも祖父母にも告げなかった。
この頃、祖父母はかなりの高齢で、二人ともが入院していた。
もしかすると、この子が産まれるまで持たないかもしれない。
両親にしても…元々あまり体の強くない父は床に伏せることが多く、母もそれに付きっきり。
もはや桐生院は、私が動かなくては華の家だという事すら忘れられてしまいそうだ。
…跡継ぎの事など、もう頭になかった。
だが産まれてくれるなら…私はさらに祖父母や両親に勝った気になれる。
勝ち負けではないとしても、愛人の子供を可愛がる祖父母には辟易としていたし。
私を気遣いながらも、やはり祥司さんの愛人に金の工面をしていた両親にも嫌気はさしていた。
何としても…産まなくては。
やがて、祖父が危篤に陥った。
私は祖父の枕元に座り。
「春には曾孫が産まれるのに、見て行かれないのですか?」
ゆっくりと、冷ややかにそう言って…お腹を触った。
その頃はまだ五ヶ月でお腹も目立たなく。
私の言葉を聞いた両親と祖母は、たいそう驚いた顔をした。
祖父は私の言葉に応える事もなく亡くなった。
それから二ヶ月後には、祖母も。
「雅乃の子供が見たかった。」
と、つぶやかれたが…それまで受けていた仕打ちのせいか、私には泣いて手を握るほどの情けもなかった。
祥司さんは、少し帰って来る日が増えた。
そんな時には、やはり本妻のものなのだろうか。と少し優越感に似た何かも感じたが…嬉しいとは感じなかった。
そして、四月中旬。
私は…
……女の子を出産した。
「…養子?」
私は耳を疑った。
父が…ある日突然、祥司さんの愛人の息子を養子に迎えろと言って来たのだ。
「どうしてですか。
「…やはり息子がいた方がいい。」
「そんな…」
私は…華穂を出産した時に子宮を傷めて、もう妊娠は出来ないと言われた。
それでなくても…女の子が産まれたと知った両親は、あからさまに肩を落として。
祥司さんは…首をすくめた。
…どうして?
どうして女の子だと歓迎されないの?
私が命を懸けて産んだと言うのに。
私を命懸けで産んでくれた母には解ってもらえると思ったのに。
誰も…私の気持ちなど解ってくれなかった。
私の気持ちなど蚊帳の外のまま。
我が家には…貴司という6歳の男の子がやって来た。
華穂はまだ一歳。
貴司が来たからと言って、祥司さんがうちに定着するわけではなかった。
両親は貴司を可愛がったが…私は冷めた目で遠巻きにそれを見ていた。
「華穂嬢ちゃん、お着替えしましょうね。」
中岡さんだけが…味方だった。
意地になっている私も、中岡さんの前でだけは…泣きながら弱音を吐いた。
「…どうして…華穂の事は認めてもらえないの…」
すると中岡さんは、私の肩を優しく擦りながら。
「…本当に…旦那様も奥様も酷いです…」
同情の言葉をかけてくれた。
「雅乃お嬢さん、私はお嬢さんの味方ですよ…何があっても、お守りいたします。」
「中岡さん…」
彼女のその言葉は…嘘じゃなかった。
貴司が養子に来て…一ヶ月。
まずは父が二階の窓から落ちて亡くなった。
雨樋に引っ掛かった何かを取ろうとして、過って落ちたらしい。
そして…その二ヶ月後。
今度は母が…庭にあるビニールハウスで育てている花に薬を撒いていて、誤飲して亡くなった。
立て続けの不幸に、親戚からは貴司が疫病神だと噂された。
貴司はとてもおとなしい子で。
何を言われても、それが聞こえていても。
ただひたすら…部屋の隅で正座したまま畳の目を見つめていた。
…うちに来て三ヶ月。
まともに口もきいた事はなかったけれど…
私の中に、貴司を憐れむ感情が湧いた。
少し…自分と重ねたのかもしれない。
「…貴司。」
私が声をかけると、貴司はゆっくりと顔を上げた。
「お腹がすいたでしょう。中岡さんの所に行って、食事をとって来なさい。」
私は決して優しくはなかった。
笑顔も見せず、低い声で貴司に言った。
けれど…貴司もまた、一人ぼっちだった。
それゆえか…私の目を真っ直ぐに見て。
「…分かりました。ありがとうございます。」
とても丁寧に…そう言って立ち上がった。
私を…味方と認めた瞬間だったのかもしれない。
両親の亡くなり方が不自然だったからか、一気に親戚が寄り付かなくなった。
それはそれで気楽にはなったが、仕事には不都合が増えた。
『桐生院は呪われている』
噂好きな輩がそう吹いてくれたせいで、生徒さんは大きく減り、講演の依頼もなくなった。
それでも生活に困るほどではなかった。
元々テレビもラジオもない家だ。
娯楽など何もない。
早く寝て早く起きて、華を愛でて…無駄に広い庭と大きな家の掃除をしていると、一日の大半が終わる。
そんな時は、貴司が華穂をあやしてくれていた。
誰が言ったわけでもないが、貴司が進んで面倒を見てくれていた。
華穂も貴司に懐いていて、貴司が歩くとその後ろを追うように歩いていた。
「あの…」
そんな貴司が遠慮がちに言って来たのは、貴司がうちに来て半年が過ぎた頃だった。
「お母さん…と…呼んでもいいですか…?」
それまで呼び方など気にした事もなかった。
養子にとったと言うのに。
「…いいですよ。」
祥司さんはほとんど帰らなくなった。
貴司がうちに馴染んでるのを知り、安心したのかもしれない。
幼稚舎に入っていないといけない年齢だったが、貴司は家に居た。
来年からは初等部だ。
私は中岡さんと一緒に、貴司に読み書きを教える事にした。
貴司は頭のいい子で、私達が教えるそれらをすぐに吸収した。
正直、六歳で字も書けない事に驚いたし…祥司さんの選んだ愛人のレベルの低さに腹が立った。
だが、貴司はカラカラに渇いたスポンジが水を吸うかの如く、色んな事をすぐに覚えた。
そんな貴司を…愛しいと思う私がいた。
貴司は…母親に捨てられた。
立場は違えど…私は自分をそこに見ているような気がしていたのかもしれない。
…一人ぼっちだと思っていた頃の私を。
それから…
何の事件もなく、時が流れた。
貴司は頭のいい子で、学校では常にいい成績を保っていた。
私は声を大にして誉める事はなかったが、私より身長が低い間は…頭を撫でて『よく出来ましたね』と一言伝えていた。
そんな私の後で、中岡さんが大袈裟なぐらい誉める時には。
貴司も少し恥ずかしいのか…照れくさそうにうつむいて。
だけど喜びに唇を噛みしめている顔をしていた。
貴司は相変わらず、華穂の事も可愛がってくれていた。
二人で並んで華を始めた時は、なんて可愛らしい兄妹だろう…と心底思った。
この時の私は、貴司が愛人の子供だなんて事はすっかり忘れていた。
貴司も華穂も、私の子供だ。
「お母様、華穂、お兄ちゃまの事大好き。学校でもみんながいいねって言うの。」
貴司は華穂にとって、自慢の兄だった。
面倒見も良く、頭もいい。
口数は同年代の子と比べると恐ろしく少なかったと思うが、害があるわけではない。
驚くほど行儀も良く、先生方からの信頼も厚かった。
貴司を『愛人の息子』などとほざいていた親戚達も、貴司の出来の良さに口をつぐんだ。
貴司は…立派に桐生院の長男として育ってくれるはず。
祥司さんでもない…その愛人でもない。
私が立派に育て上げてみせる。
「じゃあ、華穂も貴司の妹として恥ずかしくないような女性にならなくてはね。」
まだ幼い華穂にそう言ってみた所で、何も響きはしないと分かっていても。
華穂は、貴司の名前が出ると何かと頑張った。
自分も、自慢の兄の自慢になりたい、と。
私の前ではそんなに笑わない貴司も、華穂の前では声を出して笑った。
子供同士と言うのは、罪がなくていい。
二人が庭の桜を見上げながら、何かを語る姿を広縁から見て。
私は…やっと訪れた幸せらしき物に満足していた……
…のに…。
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