第13話 その知らせは…私が花器の展示会に出かけている時にあった。
その知らせは…私が花器の展示会に出かけている時にあった。
「桐生院様!!た…大変です!!」
会場となっているホテルのロビーで、顔見知りの従業員が慌てた様子で駆け寄って来た。
もう…それだけでただ事ではないのは分かった。
「…何でしょう。」
「すぐ…すぐ大学病院に向かって下さい。お嬢様が…」
「……」
私は、言葉の続きを待った。
お嬢様が?
華穂がいったいどうしたと言うのです。
だけど言葉は出て来ず…それが私の足を動かせた。
ホテルを出ると、すでにタクシーが待機していた。
礼を言うのも忘れて、私は着物の袂をたくし上げてタクシーに乗った。
「大学病院へ急いでください。」
低く早口で言ったが、運転手は私が言うより先に車を発進させていた。
華穂が…
華穂に何が…?
スピードの出ているタクシーが、とても遅く感じられた。
もっと…もっとスピードを出して。
もっとよ!!
心の中では叫んでいたけれど…口は一文字につぐんだまま。
手足が酷く冷たくなって…私はガタガタと身体を震わせた。
悪い事しか思い浮かばない。
だけど…もしかしたらそんなに悪い事でもないかもしれない。
ちゃんと話を聞けば良かった。
私とした事が…慌て過ぎた…
病院の前にタクシーが停まると、私はお札を手渡して走り出た。
運転手が何か言っていたが、もう耳には入らない。
ロビーに駆けて入ると庭師の
「奥様!!」
…長井。
どうして…どうして泣いているの。
「こちらです…」
長井がそう言って私の前を駆け出した。
バタバタと慌ただしく駆けて、救急治療室と書いてあるそばまで行くと。
「奥様!!」
私の事を『お嬢さん』と呼ばなくなった中岡さんが、泣きながら走り寄って来た。
「奥様…奥様~…」
「…何事ですか。除けなさい。」
「…すい…すいません…」
中岡さんは私の後ろをついて来るようにして、治療室に向かった。
だけど…
『華穂!!華穂!!』
「……」
中から聞こえたのは…貴司の声だった。
私の足が…そこで止まる。
『華穂…!!母さんを一人にしないでくれ!!』
その時…その貴司の声を聞いて…
立ち止まった私の足は…動かなくなった。
華穂は…何らかの理由で…逝ってしまった…
そして…
貴司が…それを酷く悲しんでいる。
…私を一人にしないでくれ…と…
華穂に泣いて頼んでいる…
「奥様…」
中岡さんに促されて、私はゆっくりと歩を進めた。
「…っ…お母さ…」
そこには…診察台の上に寝かされた華穂と…それにすがる貴司がいた。
周りでは、治療をしてくれた医師や看護婦達が器具を片付けている。
「…お母様ですか。たったいま…息を引き取られました。」
私を見付けた医師が小さな声でそう言った。
たったいま…息を引き取った。
どうして…?
華穂は…まだ10歳なのに…
「ごめんなさい!!お母さん!!ごめんなさい!!」
貴司が私の前に跪いて泣き叫んだ。
「僕が…僕がいけないんだ!!」
「……」
いったい…何があったの…
私は華穂の亡骸に近付く事が出来なかった。
信じたくもない。
そこにいるのが娘だなんて…
信じたくない。
娘が亡くなったと言うのに…祥司さんとは丸一日連絡がつかなかった。
会社の者が総出で探してくれたが、祥司さんは何番目かの愛人と海外に行っていたらしい。
と、長井と中岡さんが話しているのを聞いた。
もう幻滅もしない。
むしろ帰って来なくて良かったのに。
「華穂…どうして…」
それでも一応祥司さんは悲しんだ。
人前で一度も泣いていない私より、豪快に泣いて葬儀を盛り上げた。
そんな祥司さんを見て…私もだが…貴司も萎えていたのかもしれない。
ずっと伏し目がちで、涙を見せなかった。
…病院では、あんなに泣き叫んでいたのに。
華穂は…
学校帰りの貴司を見付けて、横断歩道を渡っている最中…車にはねられたらしい。
青信号だったのに。
華穂は何も間違えてはいなかったのに。
貴司は…その一部始終を見ていたそうだ。
そして…
自分があそこにいなければ、華穂は横断歩道を渡る事はなかったのに…と、自分を責めた。
「……」
火葬場で…貴司がうつむいたまま顔をあげなくなった。
そして、膝の上で握りしめた両手の上に…ポタポタと涙を落とした。
祥司さんは、そんな事は気にも留めず…ただただ泣いている。
時々私に向かって『おまえは悲しくないのか』と、吐き捨てるように言っては…また泣いた。
…悲しくないと?
この男はバカじゃないだろうか。
私が悲しくないとでも思うのか。
私自身が死んだも同じだ。
華穂は…私が命を懸けて産んだのに…
華穂は…
これからまだたくさん…
「…め…さい…」
隣から聞こえた振り絞るような声に、私は前を向いたまま…手を伸ばした。
手の平には、貴司の涙がビッショリとついて…私の手の甲にも、それは落ちて来た。
…貴司のせいじゃない。
むしろ…15歳という多感な時期に、可愛がっている妹を目の前で亡くした貴司には…本当に地獄を味あわせたと思う。
だが…
どうして…
どうして華穂なの…
その想いが、私の心を閉ざした。
葬儀の後、誰とも話したくなくなった私は、長井と中岡さんに全てを任せた。
祥司さんはまた出て行ったきり帰って来なくなった。
もう、いなくて結構。
私も…その内ここからいなくなるかもしれない。
「…奥様、少しは食事をされた方が…」
そう言われても…何も食べる気がおきなかった。
もう、このまま布団の中で息絶えてしまいたい。
寝たのかどうか分からないような睡眠。
眠れないと思っていても、横になっているといつの間にか意識を失っている。
それは眠っているのか…それとも目を開けてこの現実と向き合う事を拒否しているのか。
そして…毎朝目が覚めるたびに味わう絶望感。
なぜ…私は生きているの。
「……」
ふと、部屋の隅に花が活けてある事に気付いた。
小さな花器に…菖蒲。
私は横になったまま、それを眺めた。
…いつから…あそこにあったのだろう。
全然気付かなかった…
それを見ていると、眠くなって。
久しぶりに…いい眠りについた気がした。
目が覚めると真夜中で、照明を点けていなかったいなかったせいで何も見えなかった。
立ち上がって、真っ直ぐ上にある照明の紐を引く。
突然暗闇から朝のような明るさになり、私は一瞬目を細めた。
そして…菖蒲のあった場所に、今度は…チューリップが活けてあった。
「…チューリップ…」
華穂が好きだった花。
生徒さん達はある程度歳を取って来ると、好きな花にチューリップと答えるのは恥ずかしそうだった。
そんな中、華穂は堂々と『チューリップが好き!!』と言って、子供らしさを満開にした。
…可愛い娘だった。
私は…表立って子供達に笑顔で接する事はなかったけれど。
それでも…庭で遊ぶ姿をどこからともなく眺めては…ひっそりと笑顔になっていた。
華穂も貴司も…私の一番の財産だと…
…貴司…
ふと、貴司の事を思い出した。
もう数日部屋から出ていない私は、廊下からの中岡さんの声には反応する事はあっても…誰とも会っていない。
貴司は…どうしているのだろう。
…この花は…貴司が?
私はゆっくりと部屋を出て、階段を下りた。
今夜は満月が近いのか…庭一面が明るく見えた。
広縁にある藤の椅子に腰かけて、庭を眺めた。
ついこの間まで…華穂があそこに立っていたのに…
「…うっ…うう…」
あれだけ人前では流れなかった涙も…
一人になると、とめどなく流れた。
私は…これからどうして生きていけばいいのだろう…
まだ愛し足りなかった。
もっともっと伝える事もたくさんあったのに。
私の愛は華穂に届いていなかったはずだ。
今更ながらに自分の不器用さを呪った。
もっと…全身全霊をかけて。
あなたを大事に想っている。と…伝えれば良かった…
数日振りに…ちゃんと着物を着た。
そして、華穂の仏前に手を合わせて…
「…華穂…」
小さくつぶやいた。
死んでしまいたい。
もう、桐生院の今後など…どうでもいい。
私は、好きに生きて来れなかった。
夢さえ見られなかった。
それならば…今こそ…自由になってもいいのではないだろうか。
両親も祖父母もいない。
どうせ私が死んでしまえば、桐生院は廃れる。
どうなってもいい。
そう思い始めてからの私は、妙に頭の中が冴え渡った。
華穂の遺影が見える位置に踏み台を持って来て、鴨居に紐を通した。
傍から見れば異常な行動でも、私にはまるでピクニックにでも出かける気分だった。
華穂に会いに行くのだ。
楽しみで仕方ない。
本当に、この時の私は…それしか頭になく。
廊下に、貴司がいた事など…目にも留まらなかった。
「…お母さん。」
踏み台に上がって、鴨居に通した紐を結んでいる時…声をかけられた。
だけど私は動きを止めなかった。
紐を結びながら。
「何ですか。」
淡々と答えた。
「…何を…しているのですか…」
何をしているか?
何をしているか…
そこでようやく、私は手を止めて…貴司を見た。
「…華穂の所へ…行こうと思っています。」
私が紐を持ったまま貴司に目を向けて言うと…すでに貴司は目に溢れんばかりの涙を浮かべていた。
「…お母さん…それなら…」
貴司はずい、と部屋に入って来て私の前に立つと。
「その紐で…まず…僕を殺してから、死んでください…」
震える声で言った。
「……」
私は…とても呆れた顔をしたと思う。
貴司は今…なんと?
「華穂が死んだのは僕のせいです…お母さん、どんなに僕を憎いと思われている事か…」
「……」
「僕を殺して下さい…僕は…お母さんにまで死なれてしまったら…生きていけません…」
「……」
この子は…何を言ってるのだろう…?
私はキョトンとした顔で貴司を見下ろした。
私が…貴司を憎んでいる…?
私が死んだら生きていけない…?
「…憎んでなど…」
紐から手を離して、貴司の頭に触れようとすると…踏み台のバランスが崩れて、私は貴司の上に転がった。
「あっ!!」
「うわっ…」
私が貴司の頭を抱きしめるような形になってしまい…何となくバツの悪い空気が流れたが…
「…お母さん…」
貴司が…ギュッと、私の背中に手を回した。
「……」
それは…貴司がうちに来て、初めての事だった。
私は…貴司を我が子だと認めたと言いながら…抱きしめる事など一度もなかった。
「お母さん…生きて下さい…」
私の胸に顔を埋めて、泣き続ける貴司。
…私にはまだ…私を母と呼んでくれる存在がいる…。
華穂。
華穂。
あなたに…会いたいけれど…
あなたの大好きなお兄さんを残しては…いけないわ。
もう少し…待ってもらえるかしらね…。
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