第10話 私の名前は桐生院雅乃。
私の名前は
華道の名家の一人娘だ。
私には三人の兄がいたが…三人共産まれて一ヶ月も経たない間に亡くなったそうで。
親戚や華道の家のみんなから『桐生院は呪われている』とさんざん噂されたらしい。
母は私を産むのも相当な苦悩を強いられたのだと思う。
もう最後の出産だと命をかけて産んでくれたそうだ。
そんなわけで、私の両親はもう年老いていた。
そのせいか…16歳になったらすぐに結婚をする道が決められていた。
珍しい事ではない…うちのような家では、それが当然だったとも言える。
両親も祖父母も、恋愛結婚ではない。
相手は私より10歳上の、華道よりも…父が趣味で始めた映像の会社に興味を持っている
すでに彼を気に入っている父に言わせると、とても頭のいい男性という事だった。
私が初めて祥司さんに会ったのは、顔合わせの会食をした15歳の夏で。
暑い日なのに涼しそうな笑顔をされる祥司さんに、忍耐強い人なのだろうか。という印象を持った。
見た目は十分いい人だった。
地味な自分が恥ずかしくなるぐらい、華やかな人だった。
あまり男性と顔を合わせる事がなかった私は…それだけで舞い上がっていた気がする。
…この人と結婚して、跡継ぎを産む…
会食の最中もあまり顔を見る事が出来ず、残像の祥司さんを思い浮かべながら、彼に似合う女性にならなくては…と、漠然と淡い夢を見るようになった。
だけど…私は知らな過ぎた。
私より10歳も年上の男性が、会った事もない許嫁という存在一筋でいてくれるはずなどない…と。
祥司さんに対するそれは、恋とは違っていた。
結婚に対する憧れとも違う。
…跡継ぎを産むために同じ目標を持つ人…それが一番近い気がした。
だが、それでも夢には見ていたのだと思う。
この人と肌を重ねて…桐生院の未来を創るのだと。
「……」
学校の帰り道、私はその光景を目の当たりにして…カバンを抱きしめた。
祥司さんが…見た事のない女性と肩を組んで、宿から出て来たのだ。
その女性は…私など比べものにならないぐらい、大人の女性だった。
見た目も美しく、色気もあって…赤い口紅が似合う…大人の女性だった。
制服姿で、カバンを抱きしめている私とは雲泥の差だ。
男性が10人いたら、10人ともその女性を選ぶはず。
あの赤い唇にそそられない男性などいない。
不潔だ。
瞬間的にそう思った。
私は…あの男と肌を重ねるのか?
許嫁がいるのに、白昼堂々赤い唇の女と肩を組んで宿から出てくるような男と…
私は生涯を共にしてなくてはならないのか?
泣きながら駆け出した。
小さな頃から厳しく育てられて…誰とも恋なんてした事がなかった。
生涯を共にする人とのそれが理想だ…と、私は夢を見過ぎたのかもしれない。
こんな事、人に話せない。
…だけど、幼馴染の
幼馴染だけど…めったに会う事はない。
なぜなら、亜津子ちゃんは体が弱くて、ずっと家で寝込んでいるからだ。
私は久しぶりに亜津子ちゃんの家に行った。
うちから小さな路地を二つ南に下った所にある亜津子ちゃんの家は、あまり日当たりの良くない…だけど今時珍しい洋風の白い壁の二階建て。
私は遠慮がちに亜津子ちゃんの部屋の窓を叩いた。
お父様は銀行にお勤めで、お母様は趣味で洋裁の教室を持っておられて、この時間は隣町のきれいな公民館で生徒さんに教えてらっしゃる。
「…雅乃ちゃん…?どうしたの?」
亜津子ちゃんは白いフリルのネグリジェを着ていた。
浴衣しか着た事のない私にとっては、憧れ以上の物だ。
「亜津子ちゃん…体調どう?」
亜津子ちゃんを見上げて言うと。
「うん…今日は少しいいみたい。入る?玄関から来て?」
亜津子ちゃんは、夏だと言うのに…ネグリジェの上にカーディガンを羽織って玄関に回った。
亜津子ちゃんのベッドのそばに座って、二人で紅茶を飲んだ。
亜津子ちゃんの家には、私の憧れている物がたくさんある。
紅茶なんて、桐生院では絶対出て来ない。
「雅乃ちゃん、じゃあ…進学はしないの?」
まず…許嫁と会食をした話を出すと、亜津子ちゃんは残念そうに言った。
「…女に学は要らないって…お父さんが言うの。」
「お父さん、失礼だな…雅乃ちゃん、頭いいのに…お医者さんにだってなれちゃうのに…」
「……」
私は無言で亜津子ちゃんの手を握った。
私は…医者とまでは言えないが、看護婦になりたかった。
人に尽くしたい。
病気や怪我の人を労わりたい。
そう強く思うようになったのは…亜津子ちゃんが床に伏せ始めてからではあるのだけど…それは言わなかった。
だが、進路について両親に相談しようとすると…
父は有無を言わさず進学などないと言った。
16になったらすぐに結婚だと。
それが私の…決められた道だ…と。
「…うちの姉も…許嫁と結婚したけど…」
亜津子ちゃんは溜息交じりに言った。
そうだ…
亜津子ちゃんには、歳の離れたお姉さんがいて。
ビックリするような美人ではないけど…頭が良くて…確か、大きな会社の跡取りの所にお嫁に行ったんだっけ…
『家同士のための結婚』は珍しい事じゃないけど…
亜津子ちゃんが言うには、大きな会社の跡取りだけど、次々に起業してお姉さんは常に苦労をしているそうだ。
お姉さんなら、お父様がお勤めの銀行でも引く手あまただっただろうに。
「お姉さん、子供さんいらっしゃるんだっけ。」
「ええ。今6歳よ。」
「何歳で結婚されたの?」
「18で結婚して19で産んだわ。」
「そう…」
結婚すれば、すぐに子供ができるのだろうか…
もしそれが普通の事ならば、私は来年結婚して…再来年には出産してしまうのか。
だが…今日見た光景に、私は夢の欠片すら失くしていた。
「…今日、許嫁が女の人と宿から出て来たの…」
私が溜息交じりにそう言うと、亜津子ちゃんは悲しそうな顔をして。
「それを…見ちゃったの…?雅乃ちゃん…可哀想に…」
私の肩を抱き寄せてくれた。
「どうして…男の人って浮気なんてするんだろう…」
「え…?男の人って、みんなそうなの?」
亜津子ちゃんの言葉に疑問を感じて問いかけると。
「お姉さんの旦那さんも…すごく浮気性みたい。」
亜津子ちゃんは、少し怖い顔をして言った。
「浮気性…」
「結婚してるのに…あちこちに彼女がいるんですって。」
「……」
もう、それは…私の想像をはるかに超えた世界だった。
あちこちに彼女…
「一夫多妻の時代はとっくに終わったと言うのに、男の勘違いってとんでもないわ。」
亜津子ちゃんはそう言って、少し怒った顔をしたけど…
「でも…憧れるわ。いいなあ…雅乃ちゃん。」
ネグリジェの裾を持ってつぶやいた。
「え?」
「結婚…私には…無理そうだから…」
「……」
亜津子ちゃんは…どこが悪いとは言わないけど…
一年の大半を家で寝て過ごしている。
確かに、こんな状態だと…結婚は難しいかもしれない。
「今すぐは無理でも、元気になったら出来るわよ。」
「…元気になったら…ね。」
そう言って笑った亜津子ちゃん。
私の大好きな亜津子ちゃん。
「結婚式には、呼んでね。まだ一度も着ていない着物があるの。」
そう言って、私と指切りげんまんをした亜津子ちゃんは…
その日から一ヶ月後の夜。
息を引き取った。
亜津子ちゃんのお葬式の後。
私は一人、公園で泣いた。
亜津子ちゃんのお葬式には、同級生は誰も訪れず…
反対に、私はどうしているのかと好奇の目で見られた気がする。
亜津子ちゃんは友達だった。
幼馴染だった。
身体が弱くて、一緒に外で遊んだ思い出は少ないけれど。
それでも、枕を並べて他愛もない話で泣いたり笑ったりした…
大事な…友達だった…。
「…大丈夫?」
声をかけられて顔を上げると、逆光でよく見えなかったけど…男の人がハンカチを差し出してた。
「あ…」
涙も拭わずに顔を上げてしまった事が恥ずかしくて、慌てて制服の袖で顔を拭いた。
「せっかくハンカチを出してるんだから、袖じゃなくてこれで拭いたら?」
そう言いながら、その人は私の隣に座った。
「…ありがとうございます…」
差し出されたハンカチを、一応手にして…だけど使わずに手に握った。
「亜津子の友達?」
手に握ったハンカチを見ているところにそう言われて、私は驚いて顔を上げた。
「あなたは…?」
「亜津子の義理の兄だよ。」
「……」
義理の兄…って事は…
「亜津子ちゃんの…お姉さんの旦那さん?」
「そう。」
「あちこちに彼女がいる…?」
「え?」
「はっ!!」
つい、口に出して言ってしまった!!
私は慌てて口を押えたものの…
「あははは!!亜津子、そんな風に言ってたんだ!?」
その人は…なぜか大笑いをした。
「す…すみません…」
「いいよ。あちこちに女がいるなんて、男冥利に尽きるしね。」
男冥利に尽きると言われても…私にはそれがいい事に思えないんだけど…
「名前、教えてもらっていいかな。」
膝に頬杖をついて、私の顔を覗き込むその人は…
あちこちに彼女がいる人で…
なのに…
「…雅乃…」
私は、少し…見惚れていた。
亜津子ちゃんが亡くなって悲しいのに。
この人は、亜津子ちゃんの義理のお兄さんなのに。
「雅乃ちゃん。」
その人は私の名前を呼んだかと思うと…
「亜津子のために泣いてくれる友達がいるなんて…って、
私の頭を撫でた。
…慶子…ああ…亜津子ちゃんのお姉さんか…
「なんて…名前なんですか?」
興味なんて湧くはずもなかったのに。
頭を撫でられた時…胸の奥で変な音がした気がした。
「俺?俺は…」
その人は、足元に落ちてた木の枝を拾って、地面に『陽』って書いた。
「…よう…さん?」
「陽って書いてハル。」
「…ハルさん…」
私は…その時気付かなかった。
胸の奥から聞こえた変な音が…
恋の始まりの音だったなんて。
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