第11話 「雅乃ちゃん。」
「雅乃ちゃん。」
亜津子ちゃんが亡くなって一ヶ月が過ぎた頃。
学校帰りに呼び止められた。
振り返ると…見覚えのない車の運転席から…
「…ハルさん。」
ドキドキして、声が上ずった。
「よく…後姿で私だって分かりましたね。」
カバンを抱きしめながらそう言うと。
「何でかな。一目で分かったよ。」
ハルさんは、ニッコリと笑った。
「帰り?送って行こうか?」
ハルさんが車から降りて、そう言ってくれたけど…
許嫁のある身で…違う男性の車に乗る事に抵抗があった私は…
「いえ…寄り道もしたいので…」
つい、そんな事を言ってしまった。
「寄り道?どこに?」
「え…えっと…少し…公園で本でも読もうかと…」
「……」
私の下手な嘘は、きっとバレてしまったのだと思う。
ハルさんはしばらく無言で私を見ていたようだけど。
「でも、今からだと風が冷たくなるよ。本が読みたいなら、いい場所に連れて行ってあげよう。」
そう言って、私の腕を掴んだ。
「え…えっ?」
有無を言わさず車に乗せられて。
「大丈夫。絶対気に入るから。」
途方に暮れている間に車がたどり着いたのは…近年出来たホテルだった。
口を開けてそれを見上げていると。
「ここにね、隠れ家があるんだよ。」
ハルさんはそう言って笑って…私の背中を押してエレベーターに乗った。
エレベーター自体…あまり乗った事のない私は、少し酔いそうになって…ハルさんに寄りかかってしまった。
なんなんだろう…
この…
夢のような展開は…。
ハルさんに案内されたのは、外国の写真から抜け出たような部屋だった。
そこに、大きな本棚が並んで…
「すごい!!」
つい、大きな声を出して本棚の前に駆け寄ってしまうと。
「喜んでもらえて嬉しいな。」
ハルさんは、腕組みをして…ドアの前で笑った。
「あ…大きな声を出して…すみません…」
慌てて口を押えてみたものの…ハルさんはクスクスと笑って私に近付いて。
「どんな本が好きなの?」
腰に手を当てて、本棚を眺めた。
「…医学を主体とした小説はありますか?」
ハルさんを見上げて問いかける。
…ハルさんは、祥司さんほど派手な華やかさはないけど…背が高くて…整った顔をしてる。
「医学を主体とした小説…ああ、あるよ。何、医学に興味があるの?」
「…看護婦になりたかったんです。」
「なりたかった?今から目指しちゃいけないの?」
「…私…来年結婚するので…」
「……」
無言のハルさんの隣で…
私は、色んな事を考えてしまった。
祥司さんが女の人と肩を組んで歩いていたのを見て、嫌悪感に襲われたはずなのに…
私は…既婚者で…子供もいるハルさんに…恋心を抱いている。
……連れ去られたい。
この人に…
連れ去られたい。
「…ハルさん…」
私が意を決して顔を上げると。
「あった。」
ハルさんは本棚の二段目から一冊の本を取り出して。
「これ、雅乃ちゃんの好みに合うかどうか分からないけど…」
私に差し出した。
「…ありがとうございます…」
「…看護婦…なれるといいね。」
「……無理ですよ。」
何だか…泣きたくなった。
私は…夢を見る事も許されないなんて。
「…私は、家のために…もう…決まってる事で…」
うつむいてそう言うと…ハルさんが私の肩を抱き寄せた。
「!!!!!」
驚いてハルさんの胸の中で…目を見開く。
ど…どうしよう…
こんなにドキドキして…
嫌だ!!
「…本当になりたいなら、ちゃんと言ってみたら?」
「そ…そんな事…」
「家のための結婚なんて…もう古いよ。」
「…は…ハルさんだって…そうなんでしょう?」
「…まあ、そうだけどさ。だからこそ、そう思うよ。夢があるなら…って。」
「……」
優しく頭を撫でられて…私の思考回路は…おかしくなった。
「…いつも…誰にでも…こんな事?」
ハルさんの胸でつぶやくと。
「そんなわけない。気にならない子にまで優しくする度量はないよ。」
ハルさんは、サラッとそう言った。
「…あちこちに…彼女がいるの?」
「あちこちとまでは言わないけど、そこそこにはいるかな。」
「…浮気者…」
「妻公認だよ。」
「…公認?」
さすがに…驚いて顔を上げた。
「ああ。」
「…どうして?」
「家のための結婚だって言っただろ?うまくやっていくために…お互いの恋路は…邪魔しない…」
唇が…近付いた。
この人は…私が来年結婚すると知っても…平気でこんな事をする人。
結婚しているのに…恋をすると断言するような人…
…ろくでなしだ。
ハルさんも、祥司さんも。
だけど…
なぜか…
「…抱いて…」
私は、祥司さんより。
この人に先に抱かれたいと思った。
ハルさんの背中に手を回した。
唇が近付いて、私は目を閉じたけど…ハルさんは、それを私の唇にではなく…額に落とした。
「……」
複雑な気持ちで目を開けた。
私は…てっきり…
「雅乃ちゃん…可愛い子だね…」
ハルさんはそう言って私の前髪をかきあげたけど…
私には、羞恥心しか湧かなくて。
「…失礼します!!」
椅子に置いていた鞄を手にして、部屋を駆け出した。
…なんて事…
なんて事!!
私…許嫁がいるのに…
抱いて…だなんて!!
当たり前に、くちづけされると思ってたなんて!!
「っ…は…っ…」
エレベーターに一人で乗る勇気がなくて。
私は、階段を選んだ。
そして…泣きながら、一段ずつ重い気持ちで踏みしめて降りた。
…ハルさんは、酷い人だと思った。
あんなに優しくされたら…誰だっていい気分になってしまう。
そして…その気にもなってしまう。
あちこちに彼女がいるって亜津子ちゃんが言っていたのは…本当なんだと思った。
お互いの恋路を邪魔しない夫婦…
そんな夫婦関係が世の中に存在するのだろうか。
それでも、亜津子ちゃんのお姉さんは…ハルさんの子供を産んでいる。
結婚という契約をしてしまえば…
愛していなくても…その男の子供は産めるというの…?
泣きながら外に出て、公園を走ってると…
「…雅乃?」
名前を呼ばれた。
驚いて顔を上げると…祥司さんがいた。
…一人で。
「どうした?何かあったのか?」
「……」
まだ一度しか会った事がないのに…祥司さんはまるで昔から私を知っているかのようで。
名前も呼び捨てだし…馴れ馴れしく頬にも触れて来た。
…女の扱いに慣れてる。
「…もう、帰るだけなので…」
背中に手を添えられて、少し粟立った。
「許嫁がこんな顔して走ってたら、心配に決まってる。」
「……」
「送って行くよ。お義父さんと仕事の話もしたいしね。」
…この人は、私と結婚する事に疑問や違和感はないのだろうか。
「来年が待ち遠しい。」
そう言いながら私の背中を押す祥司さん。
…本当なの?
私は心の中に絶望にも似た気持ちが広がっていくのを感じながら。
そんな私達を…ハルさんが車から見てた事なんて…気付かなかった。
祥司さんに送ってもらって家に帰ると。
何となく予想はしてたけど…両親も祖父母もとても喜んだ。
まるで何かのお祝いのように、晩御飯はご馳走になった。
私は全くそんな気分ではないのに。
もはや私など蚊帳の外になって。
私は自分の部屋に入った。
そして…
「…どうしよう…」
勢いで持って帰ってしまった…小説を手にした。
あんなにたくさん本があるなら…一冊ぐらい…
いいえ、これはあの人のコレクションの一つかもしれない。
ちゃんと本棚に返さないと…
「……」
どうせ持って帰ってしまったんだ…
読むぐらい…いいよね?
私は自分でそう言い聞かせて、勉強机の椅子に座ると、ページを開いた。
そして…私はその本を夢中になって読んだ。
勉強が得意ではない女の子が、父親の病気をキッカケに医学の道に進むという…ありきたりな話なのかもしれないが…
ありきたりだからこそ、夢中になった。
この主人公は、私だ…なんて…
「雅乃。」
ふいに襖が開いて、祥司さんが入って来た。
「っ…な…何ですか…」
夢中になってた私は、慌てて本を閉じて立ち上がる。
「宴の席に許嫁がいなくて、寂しい。」
「…すみません…」
本当にそんな事思ってるの?
私は困った顔をしたまま、少し…後ずさりをした。
「…小説を読んでいたのか。」
祥司さんは机の上の本を手にしてそう言って。
「文学少女は嫌いじゃない。」
私の…腕を掴んだ。
「えっ…」
何が起きたのか分からなかった。
突然、天井が見えて…背中は畳についていた。
私…
「…まだ経験はないのか?」
至近距離に…祥司さんの顔…!!
「や…やめて下さい…」
大きな声を出したいけど…こんな事、家族に知られたくない…!!
少しだけジタバタしてみたものの…祥司さんの力は意外と強かった。
「俺達結婚するんだ。恥ずかしがることはない。」
首筋に祥司さんの唇が這って…
私は泣きたい気分になって…
「…女の人と…宿から出てくる所を見ました…」
そうつぶやいた。
「……」
すると祥司さんはゆっくりと私から離れて。
「…ショックだった?」
私を見下ろして…言った。
…ショックだったかと聞かれると…それは…そうだけど…
私が何も答えずに困った顔をしていると。
「式までにはきれいにしておくよ。」
そう言って笑って…私の頭を撫でて…部屋を出て行った。
「……」
式までに…きれいにしておくって…
女性関係を…って事?
私はまだ15歳で…
夢を見たいのに…
それさえ…許されないなんて…
「……」
本を…借りて一週間。
私は、それを持ってホテルの前に立っている。
受付の人に返しておいて下さいと頼む手もあるが…
私は、気付いた。
ハルさんの名字を知らない事に。
部屋まで持って行って…もし会ってしまったら…
…ああ…私、なんであんな事言ってしまったんだろう…
抱いて…だなんて…
だけど、ハルさんの腕の中にいて…自然とそんな気持ちになった。
思い出すと恥ずかしくてたまらないと同時に…胸がしめつけられる思いだ。
小さく溜息をついて、やっぱり帰ろう…と向きを変えようとした瞬間…
「っ!!」
驚いて声が出なかった。
突然、誰かに腕を掴まれて…そのまま走るようにしてエレベーターに連れて乗せられた。
「……」
丸い目をして見上げた先には…ハルさんがいた。
私を見下ろして…
掴んだままだった腕をグイ、と引き寄せて…私を抱きしめた。
「え…あ…あの…」
「雅乃ちゃん。」
「は…はい…」
戸惑いと…だけど…きっと喜びの方が大きかった。
ハルさんは私の頬を両手で包むと…唇を重ねてきた。
「……」
私の手から…小説が落ちた。
ハルさんは…既婚者なのに…
子供だっているのに…
私は…来年結婚するのに…
どうして…?
そのくちづけは…優しくはなかった。
荒々しくて…息が出来なくなった。
ハルさんは、私の頭を強く引き寄せて…何度も何度も…くちづけをした。
やがてエレベーターが開いて、ハルさんは私の手を握って落ちた小説を拾って歩き始めた。
私は…何の言葉も出せないまま…ハルさんの背中を見ていた。
私…今…この人と…
ダメだと思いながらも、舞い上がった。
それはもう…
この人の事を…好きなのだと…
愛してしまったと…
認めた瞬間でもあった。
「雅乃、綺麗ですよ。」
「本当に。」
「…ありがとうございます。」
今日は…私と祥司さんの…結婚式。
うちでは代々家での結婚式が決められていて…
昨日から、遠い親戚までもが泊まりに来ていて…落ち着かない。
白無垢も、色打掛も…
本当なら、もっとわくわくするような気持ちで着る物なのだろうけど。
私は…
「雅乃。」
呼ばれて顔を上げると、袴姿の祥司さんがいた。
「…綺麗だ。」
「…ありがとうございます。」
祥司さんとは…この一年、毎月食事に出かけた。
ドライヴにも連れて行ってもらった。
くちづけされたのは…二ヶ月前。
それでも、ずっと我慢してくれていたのだと思う。
私は…固く口を閉じていた。
本当なら…受け入れたくなかった。
でも、祥司さんは私の夫となる人だ。
受け入れないわけにはいかない。
女性問題については、私からは何も問わなかった。
結婚式までにきれいにするとは言われても…浮気は男の甲斐性だ。と、父が酒の席で豪快に笑いながら言っていたのを聞いて。
きっと…祥司さんも浮気を繰り返すのだろう…と思った。
父も、祖父も。
私が何も知らないとでも思っているのだろうが…
母と祖母に何度も皿を投げられていたのを見た。
私は…
祥司さんが浮気をしても…皿を投げたりなどしない。
私のこれもまた…浮気と変わらないからだ。
…ハルさん。
私は…あなたへの想いを持ったまま…祥司さんのものになります。
一度交わしたくちづけが…
あれだけが…
私と彼の思い出になった。
あのエレベーターでのくちづけの後…
涙が止まらなかった私を…ハルさんは悲しそうな目で見つめて…
ただ、抱きしめるだけで…終わった。
…抱いて欲しかった。
だけど…怖かった。
怖くて…涙が出た。
私は…親友の義理の兄と…不貞を働く所だったのだ。
自分の醜さに…涙が止まらなかった。
…亜津子ちゃん。
許して。
…ううん…
許さないで…。
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