第35話 「ただいま帰りました。」

 〇桐生院さくら


「ただいま帰りました。」


 夜…七時を少し過ぎた頃、千里さんが帰って来た。


「お邪魔します。」


 …なっちゃんと一緒に。



「おかえりなさい。」


 あたしはテーブルに料理を並べながら…二人を出迎えた。


「あれ?みんな帰ってないんすか?」


 誰もいない大部屋を見渡して、千里さんが驚いた顔をした。

 だいたいこの時間には、いつも…みんな揃ってるのに。


「知花も華音もまだ遅くなるって。咲華も残業ってメールがあったわ。」


「華月は撮影でスイスだよな。」


 …なっちゃんが千里さんにそう言うと。


「すげー楽しいって昨日電話がありました。」


 千里さんは首をすくめて定位置に座った。


「聖はそろそろ帰って来ると思うけど。」


「じゃ、先に一杯…」


「ふふっ。はいはい。」


 なっちゃんが千里さんの向かい側に座ったのを見て、あたしは冷蔵庫からビールを取り出す。

 グラスと一緒にテーブルに運ぶと…


「…グラスをもう一つ。」


 なっちゃんが遠慮がちに…そう言った。


「あ…はい…」


 …今まで…なっちゃんがうちに来ても、あたし達は言葉を交わさなかった。

 なっちゃん、欲しい物はお義母さんに頼んだりしてたし…あたしにかけられる言葉は…何もなかった。



 でも。

 あの日…

 貴司さんが亡くなったあの日…


 お義母さんが『貴司の所に行って来るよ』って大部屋を出て。

 あたしがそれを追おうとすると…なっちゃんがお茶をこぼして…あたしにかかった。


 あの時…

 それこそ…二十数年ぶりに…

『悪いな。熱かったか?』って…声をかけられた。


 そして今も…

 視線は合わさないけど、あたしに…かけられた言葉。


 …真実が大事だとすると…

 この胸は正直だ。

 あたしに声をかけてくれたって思うだけで…ドキドキしてる。



「…飲まないんすか?」


 千里さんが不思議そうな声を出した。

 あたしが振り返ると、なっちゃんはグラスを貴司さんとお義母さんの席に置いて…


「イベント前だから摂生してる。俺はお茶をもらうよ。」


 そう言って、目の前にある湯呑を手にした。


「あ…すぐ…」


 なっちゃんがビールじゃなくてお茶なんて…

 何だか違和感だったけど、摂生と言われると納得…

 もう…若くないしね。

 イベントで歌うのだって…すごく久しぶりだろうし。


 知花がよく飲んでるノドにいいお茶があるけど、食事前には合わないかな?と思って普通に我が家のお茶を出した。

 何年か前からお義母さんと煎って作ってるお茶。

 今年は…一人で煎った。



「…うん、美味い。」


 あたしが入れたお茶で千里さんと乾杯して、一口飲んだと思ったら…小さくつぶやいたなっちゃん。

 今までもお茶を飲むと…必ず言ってくれてた。


 二人が話しながら食事を始めて、ほんの数分したぐらいで…聖が帰って来た。


「あ、おかえり。」


「ただいま…あ、おっちゃん来てたんだ。久しぶり。」


「ああ。仕事はどうだ?」


「毎日敗北感しかないよ。」


 聖はネクタイを緩めながらキッチンまで来ると。


「あー…腹減った…俺もビール飲もうかな。」


 そう言いながら手を洗って、自分でグラスを持って千里さんの隣に座った。


「あれ?おっちゃん飲んでないんだ?」


「イベント前だから摂生。」


「ああ、大賛成。どこかの親父もそうすればいいのに。」


「どこの親父の話だ?」


「お花の子の親父だよ。」


 耳に届く三人の会話が楽しくて…少し笑顔になった。


「母さんも座れば?」


 聖にそう言われて…


「あー…うん…」


 自分のお茶碗を持って席についた。


「…いただきます。」


 小さくそう言って手を合わせると。


「おっちゃん、昔、母さんの手料理食った事ある?」


 いきなり…聖がなっちゃんにそう言った。




 〇神 千里


「……」


「……」


「……」


 突然の聖の言葉に、俺と高原さんと義母さんは固まった。


 …聖。

 俺でもそんな質問はした事がないぞ!!



「昔々、ずっと若い頃。母さんが姉ちゃんを産む前。付き合ってたんだから手料理ぐらい食った事あるよなあ。何が得意料理だった?」


 聖は口に入れた漬物をポリポリといい音を立てながら、何でもない事を話すように…淡々とそう言った。


「…聖。」


 義母さんが、らしくない弱々しい声で呼ぶと。


「ずっと聞いてみたかったんだ。馴れ初めとかさ。もう父さんいないんだから、堂々と聞いてもいいかなと思って。」


 聖は…ニッと笑ってそう言った。


 …馴れ初め…


 俺は…今日、高原さんからビートランドを引き継いでくれと言われた。

 衝撃の引退宣言をされて…今もまだ受け止められずにいるのに…


 聖!!

 おまえ、なんで年寄りの身体に差し支えそうな事を…!!



「ふっ…馴れ初めか…」


 言うわけない。

 そう思ってた俺の意に反して…高原さんは小さく笑うと…


「…貴司にも…病院で聞かれた。」


 聖の目を見て言った。


「…父さん、おっちゃんの事大好きだったからなー…根掘り葉掘りやられただろ。」


「ああ、そうだな。そんな事聞いてどうするんだ?って事まで。」


「で?馴れ初めは?」


「…ぶつかったんだ。」


 話し始めた高原さんを前に…義母さんはうつむき加減に難しい顔をしてる。

 眉間にしわを寄せたり…唇をくいしばったり…


「ぶつかった?」


「ああ。それで…ひっくり返った女の子が…」


「母さんだったんだ?」


 高原さんの視線が…義母さんに向いた。

 俺が知る限り…随分珍しい光景だ。


「…さくらだった。」


「!!」


 高原さんが…義母さんの名前を口にした途端、義母さんが顔を上げた。

 それには…俺も聖も…少し肩に力が入った。

 高原さんの口から…『さくら』という名前を呼び捨てにされるのを聞いたのは…

 何十年ぶりだろう。

 聖に限っては、初めてのはずだ。


 別に…俺がそうならなくてもいいのに…

 …ドキドキした。

 目の前にいる、この人の…

 高原さんの若い頃の想い。

 ずっと…封印されていた…強い想い。



「さくらはその時14歳。俺は27。だけどバーで歌うために21って偽ってたさくらに…俺もまんまと騙された。」


「ぶっ。」


 俺と聖は同時に噴き出した。


「母さんが7つもサバ読んでたって…!!21に見えたわけ!?」


 聖がゲラゲラ笑いながら義母さんを見る。

 俺も同じぐらい笑いたかったが…さすがに遠慮した。


「見えなかったさ。どう見ても中学生。」


「なっ…」


 義母さんは真っ赤になって口を開きかけたが、唇を尖らせてスカートを握りしめた。


「当時、もう世界のDeep Redって言われてた俺に、ライヴバーで歌うから見に来てくれってお誘いしてくれてね。」


「…義母さん、勇者ですね…」


「逆ナンじゃん。」


「ははっ。本当だな。」


「し…知らなかったんだもん…」


 義母さんは肩身が狭そうに小さくなって、下を向いたまま言った。

 …不思議な事に、そんな姿は俺の知らないはずの昔の義母さんに思える。


「で?おっちゃん、見に行ったの?母さんのライヴ。」


「行ったよ。俺達Deep Redの原点の曲、Deep PurpleのBurnを聴かせてもらった。」


 …こんな高原さんは…初めて見る気がした。

 穏やかで…ただの男の顔…


「上手かった?」


「それが下手だったんだよな。」


「も…もう!!」


 義母さんが真っ赤になって立ち上がって、俺達三人が見上げると。


「む…昔の話なんて…その…」


 モジモジとスカートを握って困った顔。


「いいじゃんか。俺、母さんの若い頃の話聞きたいんだ。」


 聖がそう言って、義母さんの腕を引いて座らせた。


「で?その14歳とどうして付き合う事に?」


 聖はニヤニヤしながら高原さんに問いかける。

 …勇気あるな…本当に。


「いい声をしてたからな…ボイトレを頼まれて引き受けて…まずはヒヨコを育てる感覚で…」


「あっあたしヒヨコ扱いだったの!?」


「あはは。まあ、そうだな。」


「…世界の高原夏希にボイトレしてもらう14歳…羨ましいっすね…」


「21だって騙されたままだったけどな。」


「…詐欺っすね。」


「しかもボイトレの料金はサイモンバーガー。」


「えっ、母さん、ハンバーガーでボイトレしてもらってたのかよ。」


「~…だって…」


「でも、ヒヨコは見事に育った。気付いたら…ヒヨコに会いたくて仕方ない自分がいた。」


 親父さんは…この話を聞いても、きっと妬かなかったはずだ。

 自分の大事な女性を…自分が出会うより前に大事にしてくれていた高原さんを…

 きっと、違う意味で…大好きでたまらなかったはずだ。




 〇桐生院 聖


「気付いたら…ヒヨコに会いたくて仕方ない自分がいた。」


 おっちゃんは…今まで俺が見た事ないような顔でそう言った。


 …父さんから、俺の実の父親がおっちゃんだと聞かされて…

 改めて、俺は…『高原夏希』という人物についてを調べた。

 世界のDeep Redと呼ばれたバンドのボーカルで…世界中のアーティストが憧れて、その門をたたく音楽事務所ビートランドの設立者。

 知れば知るほど…非の打ちどころのない人物。


 ソングライター藤堂周子さんとの間に、娘さんが一人。

 母さんと出会う前の事だったらしい。



 父さんは…母さんの事が大好きだった。

 俺から見ると、姉ちゃんと親父みたいなベタベタな夫婦とは違ってても…静かな愛を感じる事の出来る夫婦だった。


 …だけど。


 おっちゃんと母さんの愛は…それよりもずっとずっと、深くて強い物なんだろうな…って感じてた。

 それは今まで当たり前のようにしてた…言葉を交わさない事や視線を合わせない事。

 こんなに大家族の中でのそれは、大した事じゃないように思えたけど…誰もが感じてた事でもあると思う。


 二人が父さんに遠慮してそうしてるのか。

 それとも…抑えきれない想いがそうさせてるのか…って。



 父さんは…おっちゃんの事、もしかしたら…母さん以上に好きだったのかなって…さ。

 変な意味じゃなくて。

 おっちゃんと話す時の父さんの顔を思い出すと…特別だったんだな…って思う。

 よく笑ってたもんな…

 無口な父さんが…おっちゃんと話す時は…いつも見せない顔してた。

 それが少し羨ましかった。

 そんな顔して話せる友達がいるって事が。

 …ま、俺にもいるっちゃーいるけどさ…



「で、いつ14歳だって知ったの?」


 俺がビールを飲みながら問いかけると。


「……」


「……」


 おっちゃんと母さんは、少し見つめ合って。

 おっちゃんは苦笑いをして…母さんはうつむいた。


「何だよー。そこ肝心じゃん?俺なら中学生お断りだぜ?」


「まあ…確かに…歳を打ち明けられた時は嘘だろ!?って思ったな…」


「それでも結局付き合ったんだ?」


「…そうだな。一緒に暮らした。」


 つい、大げさに目を見開いた。

 おっちゃん、27の時に14歳と…って、それ、軽く犯罪だよなー!!

 心の中でそう思いながら、何度か首を横に振った。


「アメリカで出会ったって事っすよね…義母さん、学校とかどうしてたんすか?」


 親父がそう言うと。


「ああ…頭は良かったんだ。通信教育で高校修了課程は終えてた。」


 何も言わない母さんの代わりに、おっちゃんが答えた。

 それは俺も知らない事で…


「…すげー意外…」


 親父と顔を見合わせた。


 まあ…でも母さん、姉ちゃんと二人して変なもん作ったりしてるもんな…

 何となく学はあるんだなって気はしてたけど…


「14歳の彼女かー…」


 俺が大袈裟にそう言いながらニヤけると。


「16になるまで手は出さなかった。」


 おっちゃんが真顔でそう言って。


「何言うのよー!!」


 母さんが大声を出して立ち上がって。


「バカーッ!!」


 真っ赤になって大部屋を走り出た。


「……」


「……」


「……」


 俺と親父とおっちゃんはしばらく廊下を眺めて。


「…全力疾走だったな。」


 親父の一言で…一斉に噴き出した。





 〇桐生院さくら


 も…も…もうもうもうもうもうもうもうー!!

 何なのよー!!

 息子と娘婿の前で…!!


 なっちゃんのバカーーーーーーーッ!!


 あたしは広縁の藤の椅子に丸くなって座って、両手で頬を押さえたまま…月の明かりに照らされる庭を眺めた。



 …なっちゃんが…

『さくら』って…言った。

 あたしの名前…呼んだ。

 目が…合った。

 …あたしのこと話しながら…笑ってた。


 何だか…どれもが夢みたいで。

 貴司さんへの後ろめたさを感じながらも…これが真実だとしたら…

 …あたしは、この想いを…大事にしていいの?



「お義母さん。」


 照明も付けないままの広縁にいたあたしを見付けてやって来たのは、千里さんだった。

 手には…ビールの入ったグラス。


「…ありがと。」


 差し出されたそれを手にすると、千里さんはあたしの足元に胡坐をかいて座って。


「…今日、高原さんに引退するって言われたんすよ…」


 庭に目を向けて…言った。


「……え?」


「引退するって。もう…十分やり尽くしたって。事務所は…俺とアズ…瞳の旦那に任せたいって。」


「……」


「…正直…俺は高原さんの背中を追ってここまでやって来て…まだまだ続けて欲しい気持ちの方が強いです。」


「…うん…」


「でも…ここまで突っ走って来たあの人が…自分で自分の幕引きのために…今度のイベントを考えたのかなと思うと…」


「……」


「…どうしても、成功させたい。」


 千里さんはそう言って顔を上げて。

 あたしに手渡してたグラスに、自分のグラスを合わせた。


「まだ…引き継ぐ覚悟も何も出来てないけど…イベントは成功させたいっす。」


「…そうだね。」


「頼みますよ。」


「…頑張る。」



 なっちゃんが…引退…

 それは、すごくショックだったし…信じたくない気がした。

 あたしだって…高原夏希の一ファンだもん…



「…ふっ…」


 ふいに、千里さんが笑って。

 あたしは首を傾げて、優しい娘婿を見下ろす。


「何?」


「いや…聖、かなりぶっちゃけて聞いたなと思って。」


「ああ…やだもう…ビックリした…」


 本当に。

 思い出すと恥ずかしくて、あたしはまた右手で頬を押さえた。


 …もうおばあちゃんなのに…こんなにドキドキするなんて。

 普通なら、動悸とか血圧とかって言われちゃうんだろうけど…

 …あたしのこれは…

 恋の…ドキドキだよね…?



「…もう、いいんじゃないっすか?」


「何が…?」


「高原さんと…今度こそ、くっついても。」


「…くっつくって。」


 千里さんの言い方がおかしくて笑うと、千里さんはゆっくり立ち上がって。


「飯、食いましょう。」


 あたしを振り返った。


「…うん。先に行ってて。」


 あたしはグラスを掲げてそう言って、飲んでから行く事にした。


 千里さん…あたしが戻りにくいと思って迎えに来てくれたのかな?

 やっぱり優しい娘婿だな。



 …なっちゃんと…なんて。

 やっぱり考えられない。

 想いは…ずっとあっても…


 もう、今更…だよね…

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