第2話 「瞳…」

〇東 瞳


「瞳…」


「ん?」


「今日は…天気はいいのかしら…」


「少し曇ってるけど、時々晴れ間が出てるわよ。」


あたしはそう言って、少しだけカーテンを開けた。



あたしの母…藤堂周子は、今年で68歳。

ずっと…精神的に不安定で施設に入っている。

日本に帰ってからずっとだから…

もう…19年…ここで暮らしてる。


あたしの実の父親、高原夏希と入籍してからも…

ここから出るのを拒んだ。


6年前から精神的には安定して、自宅療養も可能と言われたのに。

母は…ここから出たくないと言った。

出たら死ぬ、と。


それと関係があるのかどうかは分からないけれど…

精神的に回復したのと時を同じくして、身体を壊した。



「今日は…たくさん話したい気分だわ…」


そう言った母は、ほんのり笑顔で。

そんな日は…昔の…あたしが大好きだった母の事を思い出す。

まだ、母がジェフと再婚する前の…

あたしと二人でいた頃の事。



「瞳…聞いてくれる?」


「ん?いいわよ。なあに?」


枕元に顔を近付けると、母は少し嬉しそうな顔をした。


「…あなたが…まだ一歳を少し過ぎた頃にね…結婚を…するはずだった人がいたの。」


「えっ…初耳…驚いた。どんな人?」


「マシューって人で…不動産で働いてた人よ…メジャーリーガーも目指した事があるって…熱い人だったわ…」


それから母は…マシューと食事に行った日の事。

いつも綺麗だと褒めてくれていた事。

マシューはあたしの事も、とても可愛がってくれていた事。

結婚の報告をした途端、マシューの親戚から電話の嵐だった事。

それは…孤独になれていた母にとって鬱陶しい物と思いきや…幸せな気持ちにさせてくれた事。


それらを…とてもスラスラと話した。



昔話をしながら、こんな穏やかになっている母を見るのは…初めてだ。

それだけ、マシューという人の存在は大きかったのかもしれない。

なのに…どうして結婚しなかったの…?

そう聞きたかったが、先を急がずあたしは母の話を最後まで聞いた。


すると…


「…クリスマスだったわ…風邪気味のあなたを病院に連れて行って…家に帰ると…近所の人達が大騒ぎしていて…」


「……」


もう、嫌な予感しかなかった。


「すぐに…病院にって…知り合いの大学生が車を出してくれて…」


「…母さん…」


あたしは両手で母の手を握る。


病院にたどり着いた母が目にしたのは、並んだベッドに横たわる四人の姿。

マシューと、初めて母に会うはずだった…彼の両親と弟。


「…神様はいないって…思った…クリスマスに…こんな残酷な事って…ある?」


あたしは涙を我慢する事が出来なくて。

母の手を握りしめたまま…泣いた。


「…悲しい話を…聞かせてしまったわね…ごめんね…」


母はそう言ってあたしの頭を撫でた。



…誰にだって、幸せになる権利はあるのに。

母は…父とは結婚出来なくて。

一人であたしを産んで。

幸せになれるはずだったマシューを亡くし…ジェフと再婚したものの…暴力を振るわれ心身ともにダメージを受けた。


父とは念願の入籍を果たせたけど…それは本当に幸せだったの…?

あたしは…余計な事をしてしまったんじゃ…



「母さん…」


「なあに?」


「…父さんと結婚して…幸せだと思った事…ある?」


酷な質問かとも思ったけど…聞かずにいられなかった。

ただ単に…自分の罪悪感を減らしたかっただけかもしれない。

あたしがした事は、余計な事じゃなかった。と、そう思いたかったのかもしれない。



「…あたしは…いつだって、幸せだったのかもしれないのに…それを見出す事が出来ない愚かな人間でね…」


母はあたしの頭を撫でながら続けた。


「マシューをなくした後は…自分が不幸なのは…夏希とあの子のせいだ…って思い込んだわ…」


「……」


「なんて愚かなのかしらね…わざと…瞳の存在を見せ付けるために…あの子のステージを見に行ったりして…」


そうやって、小さな…だけどさくらさんにとっては精神的に辛いであろう仕打ちを、母は続けた。

あたしを連れて、さくらさんのステージを見に行く。

高原夏希の娘という存在を…さくらさんに見せ付けて、『あたしは負けてない』と、自分で思いたかった…と。


「だけどね…何回か通ってる内に…瞳が彼女の歌を聴いてゴキゲンになってくのが嬉しくて…」


「…そう…」


「あたしの歌も…歌ってくれたわ…あの子の歌…ほんと…楽しくて…お客さんもみんな…笑顔になれてた…」


母の目は天井に向いてるけど…まるでそこに昔の映像でも流れているかのように…懐かしい目でそこを見ていた。


「妹のように…歳の離れた妹のように思えて…祝福しようって決めた…あたしはジェフと一緒にいる事に決めて…ジェフを紹介する事で…彼女から不安を取り除こうとも思った…」


それは…少し意外だった。

母がそこまでさくらさんを思いやっていたなんて…



日本に戻って…精神が落ち着かなかった間。

母は幾度となく『殺してやる』と叫び続けた。

それは…常にさくらさんの事。

あたしは、そんな母を見るのが嫌で…数年、ここには通わなかった。

薄情な娘だと思われようが…

これは、あたしの母じゃない。と…心が…母だと認めるのを拒否した。


あたしが、またここに通い始めたのは…父から


「周子の様子が落ち着いたから、映を連れて会いに行ってやってくれないか?」


そう言われた…6年前。

映はもう…9歳になっていた。

可愛い盛りに連れて来なかった事を悔やむほど…母は、映を見て笑顔で迎えてくれた。


…後で知った話だけど…

出産後からの9年、行く事を拒み続けてた間…

圭司は一人で、映の写真を手に母に会いに来てくれていたらしい。


「どうして言ってくれなかったの?」


あたしが眉間にしわを寄せて言うと。


「抜け駆けってやつ。」


圭司はケラケラと笑いながら、そう言った。


…たぶん…あたしは圭司が通ってると知っても、行かなかったと思う。

自分が行きたいと思わなければ、母には会いたくなかったから。

9年もの間、あたしは母をいないものとし…父と圭司はどんな状態の時も…母の支えになった。

…あたしは…娘失格だ。

それを今、こんな形で取り返そうとしたって…



「彼女から…不安を取り除いて…祝福するはずだったのに…」


母の言葉は続いた。


「ジェフが…『ニッキーは結婚願望も、子供も望まないって言ってたのに…今じゃ、一日も早く子供が欲しいなんて言ってる』って言ったのを聞いた途端…あたしの中で…何かが崩れたの…」


母は…あたしがいる事で、常にさくらさんより優位な立場にいると思い込んでいた…と。

誰よりも、高原夏希に近い存在だ…と。


「バカよね…あんなに結婚も子供も望まなかった夏希が…それを望んだ相手…彼女は…あたしより愛された…ただそれだけなのに…」


「母さん…」


「受け入れられなかった…それで…酷い事を言ってしまったの…」


母は…さくらさんに。

結婚はしても子供は作るな、と。

高原夏希の子供は瞳だけだ、と。

人を不幸にしてまで幸せになりたいのか、と。


さくらさんにサムシングブルーのリボンを手渡したその日に…

母は彼女に罵声を浴びせた。



…二人の気持ちが…痛かった。

母は…ずっと父の事を愛して止まなかった。

さくらさんは…まだ若くて。

父に愛されて、愛される事で愛する事も覚えていったのだと思う。

そんな時に、あたしという存在を知らしめられて…どれだけ胸を傷めただろう…



「…結局…」


あたしは涙を拭って言った。


「あたしっていう存在が…みんなを壊してしまったんだね…」


あたしさえいなければ。

あたしさえ生まれて来なければ。

母はそこまで父に固執しなかったかもしれない。

勝ち得た物など何もないと気付けば、母もこんな風にはならなかったはずだ。

そうすれば…さくらさんに何の脅威も与えずに済んだ。


あたしさえいなければ…

父は今頃さくらさんと幸せになっていたのかもしれないのに…



「何言ってる。」


声がして、驚いて顔を上げると。


「…夏希…」


「父さん…」


部屋の入口に、父が立っていた。

ドアにもたれて、腕組みをしているその顔に…笑みはなかった。


「よくもドアを開けっ放しで、そんなスキャンダラスな会話が出来るな。」


父はそう言ってドアをしめながら部屋に入ると、あたしとは反対側に椅子を出して座った。




〇高原夏希


「……」


よほどバツが悪かったのか…

俺が椅子に座ると周子と瞳は黙った。


…この施設は基本、部屋のドアは開けっ放し。

俺が来た時、周子は『マシュー』の話をしていた。

…結婚を考えた相手がいたなんて、知らなかった。

精神的に不安定だった時も、ジェフの名前は出ていたが…

マシューという名前は一度も出た事がなかった。

しかも…事故で亡くなっていたとは…

それもまた、周子の中で思い出したくない出来事になっていたのかもしれない。


今更だが、周子が一度寝た切りのさくらに会いに来た時に…

もっと周子自身の話を聞いておけば良かったと思った。

当時の俺にそんな余裕があったかと言われると…今の俺に言わせれば、ゼロに等しいと思うが。



「…周子と初めて会ったのは、向こうの事務所だった。」


俺が話し始めると、周子が少しだけ俺の方を向いた。


「高音が俺に似てるって。コーラスでどうかって言われて歌を聴いたが…」


「ダメだったの?」


瞳の早過ぎる問いかけに、周子はクスクス笑って。


「マノンにNG出されたのよ。」


早過ぎる回答をした。

まだこれから、俺が周子の歌についてどう思ったかを話そうと思ったのに。

気の早い女達め。


「どうしてNG?」


「声が似てるから面白くないって。」


「えーっ。マノンさん酷い。」


「でも、録音した物聴いたら確かにつまんなかったわ。これなら夏希が重ね緑りすればいいかなって。」


「もう…マノンさん…」


「でもマノンの意見に全員一致したのよ?」


「うそっ。信じらんない。」


二人の会話を聞いて、小さく笑う。


おい。

俺にも喋らせろ。



「瞳。」


「ん?」


「おまえを産んだと周子に聞かされた時、俺は頭の中が真っ白になった。」


「……」


「だが、話を聞いてすぐに会いたい気持ちが湧いた。」


そして…初めて会った我が娘は…

とても小さく可愛らしく…言いようのない愛しさが湧いた。


「調子のいい話だと思うだろうな…俺は周子と別れて…他の女と暮らし始めて…結婚まで考えてたからな。」


「父さん…」


「それでも、今まで抱いた事のない感情が湧いたんだ。間違いなく…勝手な気持ちなんだろうがな…」


俺の言葉に二人は黙った。

周子の右手は瞳が両手で握りしめている。

俺は…周子の左手をそっと握ると、ベッドに肘を着いて口元に当てた。


「好き勝手やってきた…俺は酷い男だな。」


結婚も子供も望まない。

周子にそう言いながらも…さくらにはそれを望んだ。

さっき周子が言ったように、さくらへの愛が勝っていたと言われたら、それも間違いではないのかもしれないが…

だが、俺にとって愛は量れる物じゃない。

ただ単に…俺の考え方が変わっただけだ。


相手と自分の年齢でそれが変わるなんて事は、あっても不思議はないと思う。

それぐらいのポリシーだったのかと言われるとそれまでだが。

だが、俺は周子が結婚を望んで子供も欲しいと初めに言っていたら…

ジェフに周子を奪われると嫉妬した瞬間に、結婚を申し出たかもしれない。

俺は意外と独占欲が強い。


しかしそれも、今そう思うだけで…

…今更言ってもどうにもならない事は言わないが…

全てはタイミング。

それで済ませてしまうには…大きな事過ぎるとしても。



「…好き勝手やってこその夏希よ…」


周子が俺の手を握り返す。


「もう…同志としか思われてないって…分かってたのに…止められなかった…」


「もう、昔の話はよそう。」


右手で周子の頭を撫でる。

精神的には落ち着いたが、周子は…身体を患っている。


「夏希…お願いがあるの…」


周子は俺から手を離して、溢れる涙を拭った。


「もし…あたしが死んだら…あの子と…結婚して…」


その言葉に…つい瞳と顔を見合わせた。


「ふっ…バカな事を言うな。おまえにはまだまだ長生きしてもらわなくちゃならないし、そもそもあいつも結婚してる。」


俺は笑いながら答えたが。


「あの子は…まだ若いわ…きっと…チャンスが来るから…」


周子は真顔でそう言う。


「…お願い…あたし…死んでも死にきれないわ…本当なら…今すぐあたしと別れて…あの子と結婚して欲しいぐらいよ…」


「……」


俺は溜息をついて。


「いいか、周子。聞け。」


周子の頭をグイ。と俺に向けて言った。


「もう全部昔の事だ。昔の事として簡単に片づけられないほど、おまえが苦しんでるのは分かるが…みんなそれぞれ今の生活がある。おまえはずっとここから出てないから時間が止まったままなのかもしれないが、みんな進んでるんだ。」


俺の言葉に周子は少し眉間にしわを寄せた。

何かを言いかけたが、俺は言わせずに続けた。


「今からの事を考えろ。治療に専念して、少し良くなったら家族でどこかに出かける夢を持ったっていいだろ?」


「そうよ母さん。みんなで温泉とか…どこか行きましょうよ。」


瞳の助けもあってか…周子は少しだけ目元を緩めて。


「…みんなで温泉…夢みたいな話ね…」


小さく笑った。


「それを夢として持ってくれるなら、次は叶える努力をしてくれ。」


「…叶えられるかしら…」


「叶えるんだ。」


もう一度、周子の手を握った。

俺と周子と、瞳と圭司と映。

五人で…温泉旅行なんて。

写真でも撮って見せたら、マノンやナオトは手を叩いて笑いそうだ、と周子は言った。

気が付いたら、俺も温泉は事務所の隣の湯ぐらいしか経験がない。



「雪の季節に行きたいわ…」


周子がそう言うと、瞳が笑顔になった。


「そうと決まったらスケジュールを空ける。」


「本当かしら。夏希、仕事が好きなクセに…」


「じゃあ約束だ。みんな12月の予定は空ける。瞳、おまえもだぞ。」


「分かったわ。」


「映にも学校休ませろ。」


「まあ、夏希ったら…」


周子が赤い目のまま…笑顔になった。

俺はそれを美しいと思った。

12月には、絶対に…家族で温泉旅行をしよう。


「指切り。」


俺が小指を出すと。


「もう…信じられない。夏希がこんな事…」


周子は笑いながら小指を出して、瞳は幸せそうに眼を閉じた…。






「…夏希…」


「ん?どうした?」


周子の体調は良くはならないものの…

酷く悪い様子でもなかった。

だが、俺は仕事も周りに任せて周子の所に通った。

周子に時間がある間に…俺がしてやれることは少ない。

ただそばにいる事でも周子の力になるなら…出来る事はしたいと思った。



「雪は…いつ降るかしら…」


周子の視線は窓の外。

俺は、痩せたその手を取って。


「クリスマス前に休みを入れたからな…是非その頃には降ってもらいたいもんだ。」


ベッドの脇に腰かけて言った。


「来週になったら瞳がここにツリーを飾るって言ってたぞ?」


「…もう?」


「どうも、そいつらを片付けさせるためじゃないか?」


俺が窓辺のジャックオーランタンを指差して言うと、周子は小刻みに笑いながら。


「ふふっ…せっかく映が作ってくれたのに…」


小声でそう言った。


先週、ハロウィンは終わったと言うのに…周子は今もそれを飾っている。

孫の映がカボチャをくりぬいて作ってくれた、本格的なジャックオーランタン。


「映は…誰に似たのかしら…ね。」


周子は並んでいる小ぶりなジャックオーランタン達を眺めながら、少しだけ優しい顔をした。


瞳と圭司の一人息子…映は、現在15歳。

意外と頭の良かった瞳と、やれば出来るタイプの圭司の息子だ。

頭は良くても不思議じゃないが…

とにかく、一見ちゃらんぽらんな両親とはかけ離れた、向上心と真面目さを持って生まれた。

そして…無口だ。



…映は、コソコソと周子に会いに来てくれる。

だが、それはだいたい俺のいない時だ。

無意識に苦手とされているのだろうか。

映を孫として愛しく思う気持ちは当然あるのに、俺と映の間に交流はない。


…それでも、俺は愛を持って映の成長を見守り続けている…つもりではある…。



「温泉…行けるかしら…」


「おいおい、何弱気になってる。」


「…だって…」


周子の左目から、涙がこぼれた。

俺はそれを手の甲で拭うと。


「…あの頃も、どこにも連れて行ってやれなかったな。」


小さくつぶやいた。


「……」


「本当に俺は…つまらない男だな。思えば…遊園地にも行った事がない。」


「本当…?一度も?」


「ああ。家族旅行もした事なんてないな。Deep Redのワールドツアーが、俺にとっての旅行みたいなもんだった。」


周子は言葉にはしなかったが、首をすくめて笑って。

『本当につまらないわね』と言いたそうな表情をした。

遊びを知らない俺が…誰かとどこかへ出かけて楽しむなんて、思いつくはずもなかったな…と。

今更ながらに納得した。


…さくらとのそれは…

もう、封印した。



「…よし。今から出掛けるか。」


俺がそう言って立ち上がると、周子はそっと目を閉じて小さく首を横に振った。

俺はそんな周子の身体を少しだけ抱きかかえて、ベッドに座る。


「なっ…」


膝に座らせると、周子は細い体を強張らせた。


「力抜け。気にしなくても、重くはない。」


「そ…そんなんじゃ…」


「さて…どこに行くかな。」


「……」


抱えてみて…胸が痛んだ。

なんて…軽いんだ。

周子の腕には、抵抗する力さえ存在しない。



…ずっと、俺が苦しめて来た。

こうなって優しくするのは卑怯なのかもしれない。

だが…

今だからこそ…俺に出来る事は何でもしたい…



「…リトルベニスに…行きたいわ…」


「……」


リトルベニス…

それは…俺の生まれ故郷…


「…そうか。じゃあ、そこへ旅立とう。」


俺は周子の額に手を当てて、自分の胸に頭をもたれかからせると。


「よし…飛行機は最上級クラスだな。そこで…周子の好きなワインを飲みながら…」


周子の耳元に…話しかけた。



* * *



「周子…見えるか?窓の外は真っ白だぞ?」


もう…息苦しそうな周子は、俺の問いかけには答えられない。


部屋の中は、まだ少し早いクリスマスツリーが不釣り合いなほど…重い雰囲気に包まれている。

だが、定期的に灯る電飾が…凍えてしまいそうな気持を優しく包んでくれる気もした。


「母さん…」


瞳は周子の手を持ったまま、ずっと…ベッドに突っ伏したまま泣いている。


「みんな浴衣に着替えた。おまえも着替えて…みんなで温泉に入りに行こう。」



周子の容態が急変した。

昨日まで…本当に昨日まで、普通に喋れていたのに。


今日は朝から息苦しそうで。

目も…うつろだった。

延命治療は本人が拒否していて…

俺達はただ、周子の呼吸が浅くなっていくのを見守るしかなかった。



「お…お義母さん…お土産、買いに…売店…」


圭司が俺に付き合って、周子を温泉旅行に連れて行ってくれている。


「売店…一緒に行かないと、俺また…こんなの要らないって言われるような…お土産…か…買っちゃうよ?」


優しい圭司は…常に周子の話し相手になってくれていた。

誰よりも、だ。


「周子…ほら…雪が…」


そう言いながら周子の前髪に触れる。


俺より一つ年上の周子は、ここ数年で酷くやつれた。

キラキラと輝いていた『スー』は…もう、いない。



「…み…」


ふいに、周子がうっすらと目を開けて…何かつぶやいた。


「周子?どうした?」


「…と…み…」


「瞳、お義母さんが呼んでるよ…」


圭司が瞳の肩を掴んで言うと、瞳は顔を上げて。


「母さん…何?何か…言いたい事があるの…?」


周子の耳に顔を近付けて言った。


「……」


周子が…全身に力を入れたかのように…

息を飲んで、瞳の耳元に手を当てた。


「…何?」


「……」


「瞳、周子はなんて言ってるんだ?」


「……」


瞳は固まったように、周子の声に耳を傾けていた。

そして…


「……うん。分かった。」


そう…周子の目を見て、答えた。



結局…周子が言葉を発したのは、それが最後となった。

俺と瞳と圭司に見守られて…

周子は、息を引き取った。


泣き崩れる瞳と、それを支えながらも涙を止められない圭司。

息をしなくなった周子を、呆然と見つめる俺。

そして…病室の片隅で、遠巻きにそんな俺達を見ている映。


…周子。

俺は…何一つ、おまえの希望を叶えてやることが出来なかった。



天国に行っても…





俺を許さないでくれ。

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