第15話 「一緒にお出かけになればよろしかったのに。」
「一緒にお出かけになればよろしかったのに。」
中岡さんにはそう言われたけど、私は小さく笑って。
「母親が大学の入学式に来るなど、今時の男の子は嫌なんじゃないかしらね。」
ショールをかけ直した。
「坊ちゃまに限って、そんな事はないと思いますけど。」
中岡さんも小さく笑って言ったが…
「いいですね。貴司には内緒ですよ。」
私は、口元で指を立てた。
今日は…大学の入学式。
貴司にとっては長い四年になるのかもしれないが、私ぐらいになると…四年などあっと言う間だ。
出来れば、この晴れの日をこっそりと目に焼き付けて、私なりに…貴司の応援をしてやりたい。
高等部での貴司は、ずっといい成績で担任をも喜ばせた。
ハキハキとした明るい性格ではないが、寡黙で頭のいい男がモテないわけがない。
ましてや、貴司は華のある祥司さんの顔立ちの良さをもらっていた。
どこか憂いのある横顔に、図書館帰りに女子高生から声をかけられている姿を中岡さんが幾度となく見かけたと言っていた。
…祥司さんから、余計なものまでもらっていなければいいのだが…と、少しだけ心配した。
が、それは余計な心配だった。
彼女が出来てもおかしくない年頃だが…とにかく勉強一筋だった。
いつかは…東海林家の娘との縁談が進むのかもしれないが…
貴司は、それを知っているから、特定の女性との交際を控えているのかもしれない。
今日の貴司は、新入生代表として挨拶もすると聞いている。
私は貴司の晴れ姿を見せてやりたいと思い、華穂の写真を持って…大学に向かった。
「…きれいな桜だこと…」
入学式が終わって、私は一人…早めに式場の外へ出た。
そこでは風に舞う桜の花びらが見事で。
それを見上げながら…華穂を想った。
「見えたかしらね…あなたのお兄様、立派に挨拶してましたよ。」
写真を胸に…小声でつぶやく。
檀上での貴司は…家では見せないような顔で。
暗記していたのか…それともその場で考えたのか。
何かを読むこともなく、会場を見渡す余裕さえある堂々とした挨拶だった。
…誇りだった。
祥司さんが余所で作った子供だろうが何だろうが…
もう、貴司は私にとって自慢の息子でしかない。
むしろ愛人に礼を言いたいぐらいだ。
歩きたい気分だった。
一人でのんびりと…公園を歩いた。
何年ぶりだろう…こんな風に、のんびりとした気分で歩く事は。
貴司と穏やかな生活をしてはいるが…私は元々せっかちなのかもしれない。
花を活けていない間は、常に動いている。
貴司のためにしてやれる事は、今必要なく、どんなに先に活かされる事だとしても…惜しまなかった。
それが目に見えない何かだとしても…貴司のためなら。
「…雅乃ちゃん…?」
背中に届いたその声に…私は心臓が止まる思いがした。
私の事をそう呼ぶ人は…この世に存在する人の中で…ただ一人…
もう…思い出す事もなかった…
…いいえ。
思い出しかけては…蓋をしていた。
私は、ゆっくりと…一歩ずつ踏みしめるようにして…体ごとその人に向いた。
「…やっぱり…雅乃ちゃん。」
「……」
私が思った、この世に存在するただ一人の人は…当然だけど、思い出の中とは風貌が変わっていた。
確か…祥司さんと同じ歳。
けれど、祥司さんよりも深く刻まれたしわ。
白髪も…多い。
でも、変わらない笑顔と…この歳でしか出せない色気のような物を感じた。
…私だって、あの頃とは違う。
多く苦労を感じた分、同じ歳の女性よりは老けて見えるはずだ。
「分からないかな?」
そう言って近付いて来た…ハルさん。
私は少しだけお辞儀をして。
「お久しぶりです。よく…私だと…」
本当は…はちきれんばかりの心臓を押さえながら…
無理矢理押さえながら…言った。
「懐かしいね。」
ハルさんはお茶でも飲みに行かないかと誘ってくれたけど…私はそんなに時間がないと断った。
すると…
「じゃあ、ベンチに座って時間のある限り。」
優しく微笑みながら言われて…断れなかった。
…一度くちづけをした人。
それも、もう…遠い昔だ。
「結婚したんだよね?子供さんは?」
そう聞かれて、私は…華穂の写真を取り出した。
「…娘が一人。」
ハルさんはその写真を見て。
「可愛い娘さんだね…いくつ?」
「…10歳の時に…亡くなりました。」
「……」
しばらく沈黙が続いた。
「娘さん一人?」
ハルさんが写真を返しながらそう言って、私は貴司の事を話した。
自慢の息子がいるんですよ、と。
「そうか…雅乃ちゃんの息子さんなら、間違いなくいい子だろう。」
「そんな事…」
私とは血の繋がりがない…とは言えなかった。
それほど、私は貴司を自慢にしている。
私の息子だ…と。
「ハルさんは?息子さん…もう大きくなられたでしょう?」
確か…出会った頃はすでに6歳の息子さんがいらしたはず。
「ああ…長男が31、次男は22で…末が二十歳だよ。」
「男の子ばかり三人?」
「そう。末の子だけが結婚して子供もいる。」
「え?じゃあ…お孫さんが?」
「そう…おじいちゃんだよ。」
私達の時代では珍しくなかったが…今時二十歳で結婚して子供をもうけるのは早い気がした。
「…家のための…?」
遠慮がちに問いかけると。
「まあ…そうなるのかな。お互い気持ちはあったようだがね。末の子は人当たりのいい誰からも愛される子だったが…本当はそれに対して反発心が少しはあったのかもしれない。」
ハルさんは…苦笑いをしながら言った。
「どうして?」
「自分の飼い犬に、名前を付けられてしまった。『ハル』ってね。」
私は驚いて目を丸くしてしまった。
どんな理由があるにせよ…飼い犬に父親の名前を付けるなんて…
「…犬にお父様の名前を付けるなんて…すぐにバレてしまうでしょうに…」
驚いたままそう言うと。
「あまり家に帰らないから、知られる事はないと思ったんだろう。」
「……」
あまり家に帰らない…
ハルさんは…祥司さんのように、今も…あちこちに女がいる人なのだろうか…
そう考えると…モヤモヤした。
「ご主人は…残念だったね。」
モヤモヤしている所に思いがけない事を言われて、私は驚いてハルさんを見た。
「主人を…?」
「もう昔だけど…一度雅乃ちゃんと二人で歩いているのを見かけてね…篠本君は高等部で同期だったから顔だけは知ってたんだ。活躍も訃報も…新聞で知ったよ。」
「…そうですか…」
…知らなかった…
そう言えば、二人は同じ歳だ。
対照的なようで…よく似たような気もする二人…
「…それに…」
ハルさんは少し悪戯な笑顔を見せて…
「うちの長男は…篠本君の子供なんだ。」
……頭の中が…真っ白になるような事を言った。
それからは…頭の中が真っ白で、私は生返事ばかりをしてしまった気がする。
ハルさんは…長男が…祥司さんの息子だ…と。
…ハルさんの奥様は、ハルさんと結婚する前に祥司さんと付き合っていて…
どうしても。
祥司さんの子供が欲しかったらしい。
本気で…好きだったそうだ。
「長男本人も知ってる。」
「…知らせないという選択はなかったのですか?」
「ない事もなかったが、本人のために知らせた。」
「…本人のため?」
「私の跡を継ぐ事で、出来て当たり前と言うような力の入れ方をさせたくなかった。」
「……」
それは…完全には分かる気はしなかったが…
家のために生きなくてはならない者特有の…悩みでもあるのかもしれないと思った。
「雅乃ちゃんも、篠本君があちこちに子供を作っていたのを知ってるんだろう?」
「………はい…」
では…その長男と貴司は…腹違いの兄弟?
中岡さんに聞いていた、祥司さんの子供が…まさかハルさんの奥さんとの間に生まれた子だったなんて…
私が眉間にしわを寄せたまま…
「でも…そんな事…」
上手く言葉に出来なくて…小さくそれだけ言うと。
「…次男は母親がイギリス人だ。」
ハルさんはまた…私の目を大きく見開かせるような告白をした。
「ははっ…雅乃ちゃん、目が落ちるよ?」
「……」
「末の子だけは、ちゃんと…私と妻の子供だよ。婿養子に出したけどね。」
「……」
もう…言葉が出なかった。
そして、あの時…この人と不貞をしなくて良かった…と、心から思った。
…そうは言っても…どこかに淡い気持ちが残っているのか。
ハルさんの声を聞いていると…不思議と甘酸っぱいような気分になった。
今更、恋だの言う歳でもない。
私は…貴司のために生きて行く事を選んだ。
別れ際、私は言った。
「主人は…愛人の上で頑張り過ぎて亡くなったんです。」
新聞には、心筋梗塞と書いてあった。
間違いではないが、祥司さんを知る人には…必要なくだりだ。
「…そうなのか。」
「ハルさんも、お気をつけて。」
なぜか…笑顔でそんな事が言えた。
私達は…こんな公園のベンチで、万が一新聞記者にでも聞かれていたらネタにされてしまいそうな話を堂々と…
ふふっ…。
結局私は…女好きの男にしか縁がなかった。
…恋なんて…実在しない。
寂しいが…私には、そういう事だったのだと思った。
「…また会えるかな。」
爪先を見ている所にそう言われて、私は顔を上げた。
「…いいえ。」
そして…首を振った。
この人には…奥様がいる。
色んな道があるとしても…私は祥司さんやこの人と同じにはなりたくない。
「…フラれたか。」
「奥様を大事になさって下さい。」
「…そうだな。ありがとう。」
久しぶりに…優しい顔が出来た気がした。
もうずっと…忘れかけていた気がする…笑顔。
…これでいい。
これで私は…全てを貴司に注ぐ事が出来る。
…さようなら、ハルさん。
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