第32話 「…どうしたの…その顔…」

 〇神 千里


「…どうしたの…その顔…」


 目の前で麗が眉間にしわを寄せた。


「…知花が…男を作った…」


「…はあ!?」


「…はあ…」


「……」


 夕べ…俺は知花を風呂に誘わなかった。

 俺が一人で入って…知花はその後で一人で入って…

 …そこでも鼻歌なんてしてやがった…


 いや、気になって覗きに行ったわけじゃない。

 ただ…

 一人で寂しそうだったら、もう一度入ってやってもいいかと思ったんだが…

 どうやら余計な心配だったようだ。


 俺はさっさとベッドにもぐって知花を待ったが、知花は大部屋でテレビでも見てたのか…なかなか部屋に来なかった。

 いつも俺は知花を抱きしめて眠る。

 俺がそうなように、知花だって俺に抱きしめられてないと眠れないはずだ。


 そして…ようやくベッドに入ったと思ったら…すぐに寝息が聞こえて来た。


 …何なんだ。

 知花は…俺と風呂に入らなくても…俺に抱きしめられてなくても…

 全然平気って事なんだな。


 そうか。

 俺じゃない奴と買い物に行って茶を飲んだ事が、そんなに楽しかったのか。



「男を作ったって姉さんが言ったの?」


 麗がカフェオレを飲みながら言った。


 何だ?そのカップ。

 でけーな。


「まあ…俺が言っちまったんだけどな…買い物用の男を作って一緒に行ってもらえって。」


「何それ。義兄さんバカじゃない?」


「ああ…バカだな…」


「……ま、でもそれなら買い物友達でしょ?別にいいんじゃない?義兄さんが勧めたわけだし。」


 麗が遠慮なく俺の心を刺しまくる。

 痛すぎて返事もできなかった。


「それに、これで買い物も付き合えって言われないからいいんでしょ?」


「……」


 グサグサグサグサ…


 頼む…麗。

 もう喋るな。



「…ねえ義兄さん。」


「……あ?」


「姉さんの趣味、知ってる?」


「…歌だろ?」


「歌以外よ。」


「……」


 麗にそう言われて…俺は酷く猫背になっていた身体を起こして考える。


 …知花の趣味…


「…食べ歩きとかか?」


「それは母さん。」


「…生花…」


「何年もやってないわよね。」


「……」


 がーん…

 俺は…知花の趣味も知らねーのか…?


「…義兄さんさあ…姉さんの事大好きなのは本当なんだろうけど…本当に姉さんの事知ってるの?」


「……」


「自分の作り上げた姉さんを好きでいるんじゃなくて、ちゃんと姉さんを見てあげてよ。」


 俺は…

 そんなつもりはなかったが…

 もしかしたら、勝手に『知花はこんな奴』っていう像を作ってて。

 その知花を…愛してたのかもしれない。


 ふわっとしてて…歌うとギャップで…カッコいい女。

 家庭的で…俺の事をしっかり考えてくれてる…最高の妻。

 だが…そんな最高の女に…俺は『して欲しい事』もしてやらねー男。

 …趣味も…知らねーなんて…最悪だ。


「はあ…」


 首を落として溜息をつくと。


「もーっ…鬱陶しい。あたし、もう帰っていい?」


 麗は…昨日の俺みたいに、冷たくそう言った。




 〇二階堂 麗


「はー…」


「……」


 義兄さんにお茶に誘われて、散々愚痴られた後。

 少し買い物をして家に帰ったら…今度はノン君が来た。


 義兄さんみたいに深い溜息をつくノン君を見て、あれ?こっちも恋わずらい?って思った。


「さっきから溜息ばっかり。」


 ノン君にアッサムを入れて、あたしはもうお茶はいいやと思ってグレープフルーツを切った。


「…そんなに溜息ついてた?」


「無意識なの?やめてよ。」


 ノン君の向かい側に座って眉間にしわを寄せる。



 ノン君から…紅美が本家の海君と付き合ってた…って聞いたのは…この四月の事だった。

 何とかって言う有名人の最後のアルバムのボーカリストとして選ばれた紅美が渡米中に…向こうで海君と…って。


 …紅美は、あたしの本当の娘じゃない。

 でもそんな事はどうでもいい。

 あたしが…紅美の生い立ちを必死で隠そうとしたのが…最大の間違いだった。

 生い立ちなんて…あたしの愛に比べたら何てことないはずだったのに。


 あたしは怖かった。

 紅美が全てを知る事で、今までの事全部を否定してしまうんじゃないかって。

 …弱いあたしが…紅美を傷付けた。


 そんな時に紅美を助けてくれてたのは…

 ずっと紅美にベッタリな朝霧家の末っ子沙都さとちゃんと、二階堂本家の海君。


 沙都ちゃんは昔からうちに入り浸りで…それこそがくと双子みたいだった。

 紅美の事が大好きで…紅美がいなくなった時も…誰よりも紅美の事を探してくれてた。


 …海君もまた…口に出しては言わなかったけど…

 紅美の事、探してくれてた。

 海君はちょうど教師として桜花に潜入してた時期。

 本当に…紅美を支えてくれてたと思う。



 紅美と海君が…想い合ってたなんて…全然気付かなかった。

 海君には許嫁がいたし…紅美だって、イトコとしてしか見てなかったはず。


 …だけど、繋がった想いは…長く続かなかった。

 海君の許嫁が…海君を庇って怪我をして、彼は彼女を選んだ。


 …ノン君からその話を聞かされた時…

 ノン君は…泣きそうな顔してた。

 もしかしてノン君…紅美の事…?って思ったけど…


「沙都が不憫でさ…」


 ノン君は、あの時も…深い溜息をついてたっけ。



 ノン君はその話を、事務所の部屋で思いがけず聞いてしまって。

 今…紅美にはたくさん支えが必要だから…って、あたしに打ち明けてくれた。

 紅美の事、何でも知りたいって思ってるあたしには…すごく…ありがたかった。

 …紅美には辛くて苦しい話だけど…。



「…その溜息、紅美が一般人と付き合ってるから?」


 グレープフルーツをつまみながらそう言うと、ノン君は頬杖をついて。


「何で俺がそれで溜息?」


 義兄さんみたいな顔をして言った。

 あ、何だか可愛くない。


 紅美は最近帰りが遅い。

 休みの日も家に居ない。

 何してるの?って聞いたら…『一般人と付き合ってる』って言われてしまった。

 あたしはともかく、陸さんのショックは意外と大きかった。



「紅美の事、好きなのかと思った。」


「最高のバンドメンバーだな。」


「あら、そう。」


「最近、なんでみんなここに集まってんの?」


 ギク。


 ノン君は話の続きみたいな感じでサラッと質問して、あたしがうっかり答えると思ってたのかな。

 そうだとしたら、見くびらないでよ?


「みんなって?」


 あたしがキョトンとした顔で首を傾げると。


「…麗姉、読めねーな…」


 目を細めてボヤいた。



 危ない!!

 陸さん!!

 バレかけてるよ!!





「今日、ノン君が来た。」


 あたしがそう言うと、陸さんはビールを飲みながら。


「へー。」


 短く、そうとだけ言った。

 視線は…テレビ。


「最近何でみんなここに集まってるのかって。」


「ほー。」


「……あたしも自動車学校行こうかなー。」


「ああ。」


「……」


 どうやら…あたしの王子様は、あたしに全く興味がないようだ。


「あーあ、つまんない。」


 あたしは必要以上に大きな声でそう言って。


「あたしも買い物用の彼氏作ろうかな。」


 陸さんの耳元でそう囁いて…ソファーから立ち上がった。


「…おい。」


 知らない。

 知るかっ。


 自分はいいわよね。

 大好きな音楽漬けの毎日で。

 誰に文句を言われる事もなく世界のSHE'S-HE'Sになって、メディアに出てない分私生活も充実しまくってるでしょうね。


 そう。

 私生活…

 SHE'S-HE'Sは私生活でも一緒!!

 仲良過ぎ!!

 何かと言うと朝霧家と釣りだの早乙女家でバーベキューだの、浅香家と海だの島沢家と山だの…

 桐生院家…あ、桐生院はいいのよ。


 …陸さん、あたしの事…オマケか何かって思ってない?

 ほんと…面白くない。



 部屋に入ってバッグに荷物を詰めてると。


「…おいおい、俺を置いて出てくつもりか?そりゃないだろ。」


 陸さんがドアにもたれて言った。


「…あたしはいつも一人。今みたいに二人でいても一人。」


「……」


「あたしも何か楽器が出来れば良かった。奥さんじゃなくてバンドメンバーになりたかった。」


 あたしは荷物を詰め込む手を休めないまま、陸さんに背中を向けたまま言った。


 本当…心からそう思う。

 バンドメンバーなら…いつも一緒に居れて…陸さんにも認められて…

 だけどあたしは……

 ほんと、オマケみたいな感じ!!


「…えっ。」


 突然身体が浮いたと思ったら、陸さんがあたしの腰を抱えて立ち上がった。


「え…えっ…なっなな何よこれ…っ…」


 陸さんはあたしを抱えたままソファーに座ると、自分の膝にあたしを向かい合うように座らせて。


「…学習能力ねーな…俺。」


 元気なさそうにつぶやいて…額を合わせた。


「……」


 久しぶりに…至近距離の陸さん…

 もう何年も夫婦してるのに…ドキドキしちゃう。


「俺、おまえは俺の事すげー好きでいてくれるって思い込んでんだよなー…」


「…何よそれ…」


「だからさ…おまえが他に男作ったりしたら、間違いなくへなちょこになる。」


「…へなちょこ…」


「おまえがいるから、カッコ良くしてられるんだぜ?」


「……」


 …やだな。

 手…だって分かっても…嬉しいや。


「頼むから俺を捨てないでくれよ。」


 陸さんの唇が、ついばむように…あたしの首筋を下りる。


「…捨てるだなんて…」


「…捨てない?」


「…捨てないよ…」


 陸さんの首に腕を回して。

 あー…あたし、やられちゃってるよ…って思うんだけど…

 ダメなのよね…

 こういう時の陸さんて…カッコ良過ぎて…本当に王子様みたいなんだもん…

 もう、いい歳のオッサンだけど…

 あたしには王子様に見えちゃうんだもん…



「…紅美が…帰って来るんじゃ…」


 ボタンを外されて、かろうじてそうつぶやくと。


「まだ早」


「ただいまー。」


 !!!!!!!!!!!!!!


 あたしは慌てて陸さんの膝から降りると、キッチンに立って冷蔵庫を開けた。


「あー疲れたー…」


「…おかえり…」


「おかえり…」


 ああ…

 ちょっと…


 …残念…。





「そう言えば、あたし『も』って何だよ。」


 お風呂から上がると、陸さんがベッドに座ってて。


「…さっきの続き。」


 あたしの手を引いてそう言った。


 …もう…いいオバサンだけど…

 照れちゃう。



「何?」


「言ってただろ?あたしも買い物用の男作るとか何とか。」


「ああ…」


 陸さんの腕枕、久しぶりだなあ…なんて思いながら、あたしは天井を見て笑う。


「姉さんが買い物用の彼氏を作ったって義兄さんが落ち込んでたから。」


「…知花が男を作った?」


「義兄さんが勧めたらしいけどね。男作って買い物に付き合ってもらえって。だから姉さんを責められないわよねって。」


 ほんと…

 義兄さんてバカよね。

 買い物ぐらい付き合えばいいのに。



「…それって…」


 陸さんは天井を眺めながら…


「里中さんの事かな…」


 耳慣れない名前を言った。


「…里中さん?」


 視線を天井から陸さんに移すと、陸さんは腕枕してる右手であたしの髪の毛をクリクリッとしながら。


「ああ…昔、浅香さんとバンド組んでた人で、もう業界は引退してるんだけど…昨日…」


 最後の方は少し言葉を濁した感じ。


「昨日、何?」


「んー…」


「何よ。」


「…里中さんと知花が、カフェにいてさ。」


「…それで?」


「なんか…すげー盛り上がってる風だったから、声かけずに帰ったんだけど…買い物の相手も里中さんだったのかな。」


「……」


 姉さんが義兄さん以外の男の人とカフェ。

 それは…何となく…て言うか、すごく違和感。

 SHE'S-HE'Sのメンバーは、まあ別として…

 姉さんて、義兄さんがヤキモチ焼きなのを十分解ってるから…

 面倒な展開になるような事はしない。はず。



「…姉さんがカフェで男の人と盛り上がるなんて…想像出来ないなあ…」


 視線を天井に戻してつぶやくと。


「あー、それは大丈夫。」


 陸さんが笑った。


「大丈夫?なんで?」


「里中さん、修理屋なんだってさ。アンプやスピーカー直してるって。」


「……ああ、なるほど。」


 すごく…納得してしまった。


 姉さんはオタクだ。

 昔、母さんが家の中のインターホンを作って取り付けた時、みんなで驚いたけど…

 姉さんも引けを取らない。

 母さんと姉さんが電気系統の話を始めると、ふわっとしてて可愛い二人も途端に男の子に見えてしまう。

 三人で買い物に行くとしても、あたしはホームセンターにだけは絶対ついて行かない。

 あの二人が工具コーナーに行くと、平気で何時間も居座る。

 姉さんの宝物が、半田ごてまで入ってる工具箱だなんて…義兄さん知らないだろうな…



「修理屋さんならマニアックな話もとことんしてくれそうだもんね…」


「だろ?」


 陸さんも自分でスピーカー直したりするけど…

 姉さんのオタク具合はハンパじゃない。

 それこそ修理屋になれるだろうし…

 何なら新しい物を作って特許とか取れちゃいそう。

 姉さんも母さんも、どこであんな技術勉強したんだろ。

 ほんと…不思議。



「義兄さん大丈夫だったか?」


 陸さんがあたしの方を見て、距離的にあたしの額に唇が当たった。

 …ちょっと嬉しい。


「んー…ま、結局義兄さんが姉さんを好き過ぎるってのが問題なのよね…」


 本当に。

 いくつになっても…『大好き』が止まらないらしい。

 それはそれで羨ましいけど…


 でも。

 残念ながら…義兄さんの不器用ぶりのせいで…


 それは姉さんに届いてない気がする。

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