第36話 ギフトは告げる

 あの柵の向こう側に行くときは、いつも心が躍る。

 けれど、今回ばかりはそうはいかなかった。アーチの下に佇むボブはソフィアの姿に気が付くと笑顔を見せたが、その固い表情を見ると首を傾げた。


「フィー? どうした?」

「ロバート殿下。今まで王子殿下と気づかず、失礼をしました」


 ソフィアはそう言って、深々と頭を下げた。その瞬間に、ボブの表情は強張った。

 どうしで今まで気が付かなかったのだろう。


『ボブ』はロバートの一般的な愛称だ。

 それに、ボブは近衛騎士をしており、見た目は薄茶色の髪に青い瞳。

 これもロバート王子と一緒。

 さらに、公爵令嬢と幼い頃から会うような高位の身分で、一般的な貴族が入れないはずの庭園にも入ることができる。

 ちょっと考えればわかりそうなものなのに、自分の察しの悪さに呆れてしまう。

 開口一番にそう言って頭を下げたソフィアに、ボブ改めロバート王子は焦ったように歩み寄り、すぐにソフィアの顔を上げさせる。


「よせ。フィー、少し話そう。フィーが俺を王子だと認識していないようだったから、気軽に接してほしくて言わなかったんだ。決してフィーをからかっていたわけではない。悪かった」


 ロバート王子は最初にソフィアの部屋を訪ねてきてくれた日のように唇を噛み、後悔したような表情を見せる。ソフィアはロバート王子を見つめ、それから目を伏せた。


「わたくし、色々とわからないんです」

「──なにがわからない?」

「さっき、この奥の庭園にはアーサー殿下がいらっしゃいました」


 ソフィアはきゅっと手を握りしめると、顔を上げてロバート王子を見上げる。


「わたくしには、アーサー殿下とヴィヴィアン様がとても親しい関係に見えましたわ」


 ヴィヴィアンの肩に手を回すアーサー王子は、とても優しい表情をしていた。ソフィアを始めとする、他の婚約者候補達には見せることのない優しい表情をしていたのだ。


 ロバート王子は表情を歪める。


「そのことについては、今は話せない。──ただ、俺はフィーをからかっていたわけじゃない。それは本当だ」


 そして、半ば強引にソフィアの手を取ると、柵の向こうにあるガゼボへとソフィアを促す。


「フィーは、以前の記憶──昔、王宮に来たときのことを本当になにも憶えていない?」


 その問いは、以前にも馬車で送ってもらった際に聞かれた。ソフィアはゆるゆると首を振る。


「何度も来たという話は両親やメル──わたくしの侍女から聞きましたが、ほとんど覚えておりません」

「そう。それはフィーのせいではないから仕方がない」

「はい。洪水に巻き込まれて頭を打ったせいではないかと」

「洪水? ああ、時期が同じなんだな」


(時期?)


 ソフィアはロバート王子の言う意味がわからず、ロバート王子を見上げた。しかし、ロバート王子はなにも言うことなくソフィアを見返すだけだ。


「もしかして、わたくしはロバート王子とも、以前に会ったことがあるのですか?」


 ソフィアはロバート王子の様子から、そんな気がした。

 いくら親切だからと言って、一国の王子がただの田舎の伯爵令嬢に色々と気を使ってくれたことに、さすがに違和感を覚えた。もしかして、昔何かがあったから気にかけてくれたのではないだろうか。

 それに、何回も昔王宮に来たことを覚えていないかと確認してくることが、なによりもの証拠に思えた。


「ああ、ある」


 ロバート王子はソフィアに向き直ると、青い瞳でじっと見つめてくる。


「何度も会ったし、一緒に遊んだ。フィーは昔、いつも俺のことを『ボブ』と呼んで追いかけて来た。『わたしの王子様』と」

「──そう……なのですか?」

「ああ」


 重ねていない方の手が伸びてきて、ソフィアの頬に優しく指が触れた。まるで恋人でも見つめるかのような熱を孕んだ視線にソフィアの胸はドクンと跳ねる。目を見ていられず、咄嗟に視線を逸らした。


「フィー、俺を見ろ」


 顎に手をかけられ、顔を向けさせられた。思った以上に近い距離にソフィアは目を見開いた。


「フィーは何か感じない? 俺に」

「なにかとは?」

「フィーの声は耳に心地いいし、フィーが呼べば遠くでも聞こえる。俺のギフトは、フィーが俺の最愛だと告げている。フィーは違う?」


 耳もとで囁かれ、熱い吐息が鼓膜を揺らした。


 ソフィアは驚き、ロバート王子を見つめる。


(ギフトが最愛だと告げる?)


 アーサー王子と同じ青い瞳は、真摯さを伝えるようにこちらをまっすぐにみつめている。


『最愛』と言われ、喜びに震える自分がいる一方で、ソフィアは混乱した。

『ギフトが告げる』とは、この魅惑的な香りのことだろうか?


「──わかりません」


 ソフィアは咄嗟にそう答えた。


 事実、自分でもわからないのだ。

 ロバート王子は優しくて、素敵な人だ。アーサー王子に一目惚れして花嫁を目指していたはずなのに、いつの間にか自分はこの人に惹かれている。

 ロバート王子からは、いつもとてもよい香りがする。思わず引き寄せられて、擦り寄りたくなるような魅惑的な香りが。けれど、ソフィアはその香りをアーサー王子や初日に出会った門番の男性からも感じた。アーサー王子に至っては、運命の人だと勘違いまでした。


「本当に?」


 じっと見つめられると、自分の心の奥底を覗かれそうな気がした。

 アーサー王子の花嫁候補でありながら、ソフィアの一番の楽しみはいつの間にか、ボブとここを散歩することに変わっていた。そのことに気が付いたのは、いつからだっただろう。


「フィー……」


 低い呼び声が、心地よい。


 と、そのとき、ポツポツと音を鳴らして大粒の雨が降り始める。ソフィアの顎から手をはずして背後を振り返ったロバート王子は、鉛色の空を見上げた。


「雨か。この天気、ここのところ毎日だな」


 うんざりしたように肩をすくめる。

 そして、意識を集中させるように目を閉じた。


「フィー、雷が鳴っている。近づく前に戻ろう。暫くやまない」


 はぁっと嘆息したロバート王子が昨日のように上着を脱ぎソフィアに被せると、手を差し出す。


「俺たちは本当に大雨に縁があるな。行くぞ」


 ははっと楽しそうに笑うと、今日も力強く手を引かれた。

 ソフィアはロバート王子を窺い見た。

 この人はあの人とは別人だ。

 なのに、あの日のように手が熱く、同じ人なのではと錯覚に陥りそうになる。


 そのまま部屋に戻ったソフィアは、連日にわたってドレスの裾の水浸しにしたことでメルに大いに呆れられたのだった。

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