第35話 疑念

 部屋に戻ってからも、ソフィアは先ほど見た光景が頭から離れなかった。


(あれは一体、なんだったのかしら?)


 チラリとしか見えなかったが、ボブが『先客がいる』と言ったとき、あそこにはアーサー王子とヴィヴィアンがいたように見えた。さらに、少し離れた場所にはミレーもいた。

 寄り添うアーサー王子とヴィヴィアンは、端から見てとても親しげに見えた。それこそ、恋人のように。

 飛んできた文鳥に手を伸ばし、嬉しそうに微笑むヴィヴィアン。肩に手を回し、それを愛しげに見つめるアーサー王子。

 あれは、どう見ても友人関係を越えている。少なくとも、ソフィアはそう感じた。

 そして、ミレーだけはソフィア達に気づいていたようで、こちらに来るなと視線で牽制していた。


(どういうことなの?)


 以前、メルが仕入れてきた情報に『アーサー王子とヴィヴィアンは恋人関係だった』という話があった。あれは間違っていて、実は今も恋人関係なのではないだろうか? 


 しかし、そうだとすると解せないのはこの花嫁選考会だ。

 名門公爵家の令嬢であるヴィヴィアンが王太子に嫁ぐことに、なんら障壁はないはずだ。国民みなに祝福されるはずなのに、なぜそうせずにこんな選考会を? それに、なぜミレーはあそこにいたのだろうか。アーサー王子もヴィヴィアンも、ミレーがいることをなんら気にしていない様子だった。


 色々な情報がぐるぐると頭の中を巡る。


 そして、ソフィアの中にもう一つ疑念が湧いた。

 これまで、どんなに庭園に人がいるときも、あそこの柵の向こうは誰一人として人がいなかった。いつも閉ざされておりソフィア一人では開けられない。開けてくれるのはボブだ。そこに、今日は初めて先客がいた。アーサー王子という先客が。


(もしかして、あそこが『王家の園』?)


 そうだとすれば、どうりでどんなに庭園を探しまわっても『王家の園』の入り口が見つからなかったわけだ。ソフィアは全く別な場所にそれがあると思い込んでいたのだから。


(ただ、そうなるとあそこを開けられるボブは……)


 また色々な情報が頭の中を巡り始める。

 そのとき、ノックする音がしてソフィアはドアを見つめる。


(もしかして、ボブ?)


 ボブは先ほど、後でまたあの庭園に行こうと言った。

 三時とは言っていたが、もしかしてもっと早く行けることになり呼びに来てくれたのかと思ったのだ。メルが誰かを確認しに行き、慌てたようにソフィアの方を振り返った。


「なあに、メル。どうかした?」

「ソフィア様。アーサー殿下のお成りです」

「え?」


 ソフィアは一瞬、何を言われているのかわからなかった。アーサー王子が来た? そして、すぐにハッとする。

 アーサー王子はこの滞在中、全てのご令嬢の元に一度は訪れると言っていた。きっと、今がそれなのだろう。ソフィアは慌てて立ち上がるとスカートを払って簡単に身だしなみを確認し、既にドアの向こうにいるというアーサー王子を迎えた。


「お越しいただき、光栄にございます」

「ああ、楽にしてくれ」


 アーサー王子は軽く片手を挙げると、腰を折るソフィアの顔を上げさせる。


(今日もいつもとは違う香水なのね)


 最初に思ったのは、そんなことだった。

 ふわりと香るのはムスクの香り。アーサー王子は日によってあの香水を付けていたり、違う香水を使っていたりする。今日は違う香水のようだ。


「殿下、紅茶でよろしいですか?」

「ああ、ありがとう」

「お好みはございますか?」

「じゃあ、『マリアージュ』で」


 事前に聞いていたとおり、アーサー王子は『マリアージュ』がお好みのようだ。ソフィアはティーカップに紅茶を注ぐと、それをアーサー王子に差し出す。アーサー王子は何も入れずにそれを口に寄せたが、飲んではいないように見えた。


「ここでの滞在はどう?」

「楽しく過ごしております。本を読んだり、お茶会をしたり……」

「それはよかった。お茶会は誰と?」

「ヴィヴィアン様とミレー様とはほぼ毎日お茶をしております。あとは、キアラ様にも時々呼ばれます」

「そう」


 その後も他愛ない話をゆったりとした様子で話を聞くアーサー王子を、ソフィアはじっと見守った。そして、ヴィヴィアンとミレーの名が出た際に、その表情が柔らかくなるのを見逃さなかった。ただ、その笑い方はソフィアが好きな目尻が下がるふにゃりとした笑顔ではなく、どことなくクールな印象を受ける。


 ソフィアは壁の時計を確認した。そろそろ十分経つので、事前の情報ではアーサー王子が退室する頃だ。ソフィアは立ち上がるとクローゼットを開き、中から二枚の雨よけを取り出した。初めてアーサー王子に出会った日に借りたものだ。


「殿下。これ、遅くなりました。ありがとうございました」

「? これは?」

「…………。雨よけのコートでございます。殿下が貸してくださったではありませんか」


 アーサー王子は目をまたたかせると、「ああ、そうだったかな」と言ってそれを受け取る。


 またソフィアの中の違和感が積み重なる。

 アーサー王子はチラリと時計を見ると、ソフィアに向かって笑いかけた。


「では、わたしはそろそろ失礼しよう。また明日、お茶会で」

「はい」


 お茶会とは、明日開催される予定の、今花嫁選考会に残っている全員が参加するお茶会のことだ。ソフィアもその会には出席する予定だ。


「では、邪魔した」

「いいえ。またいつでもお越しくださいませ」


 深々と頭を下げたソフィアは顔を上げ、近衛騎士を引き連れて部屋を去ってゆくアーサー王子の姿を静かに見送った。


「──あれは……誰?」


 小さく独りごちた台詞に応えるものは、誰もいない。

 ソフィアに親切にしてくれたのはアーサー王子。今ここにいたのもアーサー王子。でも、ソフィアにはまるで違う人のように感じた。やっと念願叶って雨よけコートを返すことができたのに、清々しさは全くなかった。

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