第7話 出発②
出発初日、ソフィアの乗った馬車は勝手知ったるマリオット伯爵領を南へと進んだ。馬車から窓の外を覗くと、街道沿いに大きな川が流れているのが見えた。十年ほど前に台風で氾濫した川だ。父であるマリオット伯爵の尽力により今はしっかりと治水工事が施され、川岸にはたくさんの花が咲いている。
「綺麗ね。リモネかしら?」
ソフィアは馬車の窓から河川敷に咲く色とりどりの花を眺めた。リモネは細い枝に五枚の花弁がついた、可憐な花だ。今の季節、ヤーマノテ王国では至る所にリモネが咲き乱れる光景が見られる。
「そうですわね」
「花摘みしちゃダメ? とてもいい香りがするわ」
「まだ出発したばかりだから、摘んでもすぐに枯れてしまいますわ。リモネは花もちが悪いから。もっと王都に近づいてからにされてはいかがですか?」
「それもそうね。王都には花畑はあるのかしら? 大きな建物ならたくさんあるらしいけど」
「どうでしょうか。わたくしにはわかりませんわ」
メルが困ったように首を傾げる。メルの両親はマリオット伯爵家の使用人で、メル自身も幼い頃からマリオット伯爵家にいた。王都に最後に来たのはソフィアと同じく十年以上前だ。歳もソフィアと一つしか変わらないから、ほとんど記憶にないのは同じなのだ。
ソフィアはそれもそうかと思い直し、再び窓の外に目を向けた。川岸のリモネが風に揺れている。小さな子供が母親と花を摘んでいる姿が見えた。
リモネはとても美しい花だが、切り花にすると花のもちがとても悪い。一日、もって二日で萎れてしまうのだ。馬車の中では花瓶もないので花もちはもっと悪いだろう。ソフィアは花摘みをあきらめると、ぽすんと背もたれに身を預けてぼんやりと外を眺めた。
暫くすると川は見えなくなり、街道の両側は民家に変わる。爽やかな風に乗り、どこかの家でパンを焼く芳ばしい香りがした。
馬車は順調に街道を進む。
出発して三日目の午前中、ソフィア達は無事に王都へと足を踏み入れた。林や畑、草原が広がっていた街道の両側は、いつの間にかたくさんの背の高い建物が軒を連ねている。
「わあ、建物がたくさん。お店もたくさんだし、人もたくさんね。凄いわ」
「ソフィア様、お顔を出しすぎないでくださいませ」
「わかっているわ」
メルに窘められてそうは答えたが、外の様子が気になって仕方がない。久しぶりに訪れる王都は、もしも貴族の嫡男と結婚できなければこれが最後の訪問になるかもしれないのだ。ソフィアは窓を開けてじっと外の様子を眺める。
そのとき、たくさんの匂いに混じってふんわりと優しい花の香りがした気がした。
「花屋があるのかしら?」
流れる景色を見渡すが、花屋は見当たらない。すぐに街道が登坂になり、丘を上がった辺りでソフィアは歓声を上げた。
「まあ! メル、見て。花畑だわ」
建物が途切れた丘の上には草原が広がっていた。一面に色とりどりのリモネの花が咲き乱れて、風に揺れていた。奥にはふわりふわりとモンシロチョウが飛んでいるのが見えた。
「花摘みをしたいわ。ねえ、いいでしょ、メル?」
「うーん。もうそろそろ着きますからちょっとくらいなら……」
「ありがとう! 大好きよ」
ソフィアはムギュっとメルに抱きつく。「仕方ないですわねえ」とぼやくメルの口調は、とても優しかった。
街道の脇に馬車を停めると、ソフィアはわくわくしながら大地に足を踏み出した。目の前の草原の中央に立つと、スーっと深呼吸をする。目を閉じれば、マリオット伯爵家と同じような小鳥の囀りが聞こえる。まだ涼しさの残る爽やかな風が艶やかな焦げ茶の髪を僅かに揺らし、鼻腔をくすぐるのは優しいリモネの花の香り……。
「とてもいい旅になりそうな気がするわ」
ソフィアは形のよい口の端を上げて微笑みを浮かべると、そっと足元の花を摘んで顔に寄せる。
「~♪ ~♪」
自然と好きな歌を口ずさみながら、花を摘み始めた。
◇ ◇ ◇
その二時間後のこと。
白くかすむ視界の先から黒塗りに金細工の施された豪奢な馬車が近づいてくるのを見て、王宮の門番は慌てて重厚な門を開いた。雨が激しく打ちつけ、辺りにザーザーと音を立てている。
「お帰りなさいませ、アーサー殿下」
「ああ、雨の中ご苦労」
馬車の中の男はチラリと門番を一瞥したがすぐに視線を逸らし、馬車は宮殿へと進む。宮殿の入り口ではアーサー王子帰還の報せを受けた重鎮──キーリス特級政務官が出迎えに立っていた。馬車のドアがガチャッと開き、中から男が姿を現す。キーリスはその姿を見て、目をみはった。
「殿下。これはどうなされました? ずぶ濡れではございませんか!」
「寄り道をした」
「寄り道?」
「ああ、そうだ。雨音に混じって鈴を転がすような可愛らしい歌声が聞こえた気がして立ち寄ったら、思わぬ人に出会えた」
訝しげに眉を寄せるキーリスを見て、男はニヤリと口の端を上げる。ずぶ濡れの上着をばさりと脱いで近くにいた侍女に手渡すと、人払いするように手を軽く振った。上着を持った侍女が一礼して下がってゆく。その後ろ姿を見送ってから、男は周囲に人気がないことを確認してキーリスに顔を寄せた。
「兄上はどちらに? 今日の視察のことを共有したい。やはり皆、明日からの花嫁選考会に興味津々だな」
「よい傾向ですな。王太子殿下は執務室におられます」
「わかった。では、体を清めて着替えてから向かうと伝えてくれ」
「承知いたしました。わたしも同席します」
「では、のちほど」
男はそれだけ言って小さく頷くと、自らの私室へ向かい歩き始めた。服は中までビショビショになっており、肌にまとわりついて気持ちが悪い。しかし、それとは裏腹に気分はとてもいい。なにせ、十年ぶりに彼女に再会したのだから。
久しぶりに聞いても、やはりあの声は耳に心地いい。脳天を痺れさせるような魅力がある。きっと自分の『聴覚』のギフト故にそう感じるのだろう。
(やはり、彼女は俺を忘れているのだろうか?)
ふとそんなことを思う。
忘れているのは知っている。わざわざ、記憶を消したのだから。しかし、無理とわかっていても、ほんの少しくらいは覚えていないだろうかと期待してしまう。
「もう一度やり直すのも、また一興か」
もしも全く記憶がないならば、これから口説き落とすまでだ。ようやく手の届くところに現れたのに、逃すつもりはない。
濡れて張り付き思い通りにならない服をなんとか脱ぎ捨てると、体の中心に意識を集中させる。フッと空気が揺れるような感覚がして、濡れた茶色い髪が視界の端に映った。
「やはり、この姿が一番楽だな」
ほっと息を吐いて鏡を見つめる。そこには、茶色い髪に青い瞳の、いつもの自分が映っていた。
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