第32話 庭園
翌朝、朝食を終えてのんびりとしていたソフィアは、窓を開けて外を覗いた。まだ午前中だし、天気も曇っている。庭園は人もまばらだが、近衛騎士達は昨日と変わらず巡回しているのが見えた。
(ボブ、いるかしら?)
ソフィアは目を凝らしたが、皆同じような白い騎士服を着ているのでここからではよくわからなかった。
(昨日のお礼が言いたいな)
昨晩の音楽会で、ソフィアはボブに勧められた通り歌を披露した。その意外性に周囲は騒めいたが、アーサー王子は楽しそうに拍手をしてくれた。
それに、横に控えていたボブが笑ってくれた。注意して見ていたから気付いたような些細な表情の変化だったが、ソフィアは見逃さなかった。なんだか、それがとても嬉しかったのだ。
「メル。わたくし、庭園に行ってくるわ」
「え? 雨が降りそうですわ」
「ええ。でも、昨日見てすっかり気に入ったの」
「ご一緒します」
「ううん、大丈夫。すぐ戻るわ」
ソフィアは笑顔でそう言うと、部屋を後にした。
庭園に着くと、草花にはまだ朝露が残っていた。丸い水滴が周りの景色を不思議な形に描き出す。ソフィアはそんな景色を眺めながら、足を進めた。そうしてたどり着いたのは、庭園の外れの鉄柵の扉の前だ。
「ボブ?」
ソフィアは小さな声で呼びかける。辺りはシーンとして、鳥の囀りだけが時折聞こえてきた。
「いないか……」
もしかして彼はこの辺りの警備担当で、今日もここにいるかもしれないと思ったのだが空振りだった。
ソフィアは少し残念に思いながら、鉄柵の扉に手を伸ばす。ドアノブを回して開けようとしたが、やっぱり開かなかった。
「やっぱり鍵がかかっているわよね……」
何度か押したり引いたりしたが、鉄柵のドアは開かなかった。ボブが鍵を使っている様子もなかった気がするのに、不思議だ。
「フィー、呼んだ?」
どれくらい経っただろう。ぼんやりと鉄柵越しに向こうを眺めていると背後から名を呼ばれ、ソフィアはビクンと肩を揺らす。振り向くと、柔らかく微笑むボブがいた。
「ボブ!」
ソフィアはパッと表情を明るくする。
「よかった。今日は会えないかと思ったわ」
「ちょっと用事があって、離れた場所にいたんだ。でも、もう終わったから。またあっちに行きたい?」
「いいの?」
「もちろん」
ボブは笑顔でソフィアの元まで来ると、鉄柵のドアノブに手を伸ばす。不思議なことに、今日も鉄柵の扉はカチャっと音を立てて開いた。
ボブはソフィアに手を差し出す。ソフィアがその手に自分の手を重ねると、二人はゆっくりと歩き始める。
「昨日の音楽会の──」
「はい?」
「あの、歌。よかった」
優しく微笑むボブと目が合い、また胸がトクンと跳ねる。
「ありがとう。今日はそのお礼を言おうと思って。会えてよかったわ。ヴィヴィアン様も褒めてくださったの」
「へえ、ヴィーも。さすが、わかっているな」
ボブは楽しげに笑う。
(今、『ヴィー』って呼んだ?)
なぜか、胸の内にもやっとしたものを感じた。
その親しげな呼び方から判断すると、ボブはヴィヴィアンと知り合いなのだろう。よくよく考えると、ボブはとてもスマートな身のこなしをしているし、もしかしたら高位貴族の子息なのかもしれない。
「ボブはヴィー様と知り合い?」
「ああ。小さい頃からよく会っているし」
ボブはなんでもないことのように、そう言った。公爵令嬢と小さい頃からよく会っているなんて、ボブはやっぱり良家のご子息に違いないようだ。
「全員の中で一番よかったと思う」
「え?」
「歌だよ。フィーの歌。とてもよかった」
「そんなに? どれもとても上手だったけど、わたくしはミレーの見事なホルンに、本当に驚いたわ。──でも、ありがとう」
ソフィアは照れたようにはにかむ。
今、アーサー王子の花嫁選考会に残るご令嬢達は皆、一流の教育を受けてきた者たちだ。その中に混じって、『ソフィアの歌が一番よかった』というのはさすがにほめ過ぎだ。けれど、そう言ってもらえて悪い気はしない。
「フィー、冗談だと思っているだろ?」
「だって。一番いいって。さすがにほめ過ぎだわ」
「俺には、本当にそう聞こえた」
ボブはすねたように口を尖らせると、立ち止まる。強い風が吹き、ソフィアは咄嗟に髪を手で押さえた。
「ただ、兄上に向けて歌っていたのが気に入らない」
「え? 何?」
風に煽られた木々がざわっと揺れる。ソフィアはよく聞こえず、ボブに聞き返した。
「俺だけのために歌ってくれたらいいのに」
ボブがソフィアの顔をじっと覗き込む。その口調は、本気でそう思っているかのように聞こえてソフィアは混乱した。
(俺だけのために、ってどういう意味!?)
胸が痛いくらいに早鐘を打つ。
今もボブからはあの魅惑的な香りがソフィアを誘うように強く漂ってくる。
(──この香り。そうよ、この香りのせいだわっ!)
ソフィアは高鳴る胸に手を当てて『落ち着くのよ、わたくし』と自己暗示をかける。どうもこの匂いを嗅ぐと自分はおかしくなる。擦り寄りたいような衝動に駆られるのだ。
優しく握られた手が熱い。ふんわりとあの魅惑的な香りが鼻孔をくすぐり、心地いい。
「フィー」
ボブがそっと片手を伸ばした。熱を孕んだような瞳で見つめられ、ソフィアは目が離せなくなった。
そのとき、頭に冷たいものを感じてソフィアはハッと顔を上げる。
ボブも空を見上げ、目元を隠すように手で傘を作った。先ほどまで曇っていた空はすっかりと濃い鉛色になっており、ぼつぼつと雨が降り始めてきた。
「雨だな」
素早く近くのガゼボの木の下にソフィアを避難させたボブが、恨めしげに空を見つめる。ほんの数分も経っていないのに、大粒の雨が地面を打ちつけ始めていた。
「雷が鳴っているな。危ないから戻ろう」
ボブは空を見上げたまま、そう呟いた。
(雷?)
ソフィアは耳を澄ましたが、地面とガゼボの屋根と木々の葉を叩く雨音以外、なにも聞こえてこない。 雨が地面を打ちつける様子を眺めていると、ふいに頭からばさりと上着をかぶせられた。
「フィー、行こう」
ボブが騎士服の上着を脱いでソフィアに被せたのだ。そして、片手を差し出す。手を伸ばすとぎゅっと握りこまれた。
「ボブが濡れてしまうわ」
「気にしなくていい。濡れないように、その上着は片手で押さえていて。走るよ」
いつかの再現のように、大雨の中、手をつないで走り抜ける。まるでアーサー王子と出会った日のようだと思った。
ソフィアはボブの後ろ姿をチラリと見上げる。ふわりとした茶色い髪は雨に濡れてしっとりと垂れていた。ぎゅっと握りこまれるようにつないだ手が、熱を持ったように熱く感じた。
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