第31話 最終選考の始まり⑤

 ボブは、ソフィアに手を差し出す。ソフィアはその手をきょとんとして見返した。ソフィアの手とは違う、大きくて節立った手だ。


「フィー、手を」

「え?」

「俺も散歩することにしよう。昨日、後で案内すると言っただろう? エスコートする」


 驚いたソフィアは慌てて両手を目の前でブンブンと振った。


「悪いわ。お仕事の邪魔でしょう?」

「王太子妃候補達の警備も俺の仕事だ。それに、俺が休憩したい。付き合ってくれ」


 ボブはソフィアを見下ろしてにやっと笑う。


「ええっ?」

「嫌か?」

「いいえ、嫌ではないけど……」

「では、決まりだ」


 ボブはいたずらっ子のように笑い、ソフィアの顔を覗き込む。

 ソフィアが気を遣わないように軽口を叩くところが、相変わらず優しい。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 ボブがソフィアを見下ろすと優しく微笑むと、また胸がキュンとするのを感じた。


 重なった手は近衛騎士をしているだけあり、固くごつごつとしている。またあの香りがスンと鼻腔をくすぐる。差し出した手を軽く握り返されると、なぜかあの大雨の日に握られたアーサー王子の手を思い出した。


 鉄柵の向こうは思ったよりも広く、先ほど見えた噴水の傍らには可愛らしいガゼボと温室もあった。


「まぁ、可愛らしいわ」


 ソフィアは歓声を上げた。ガゼボは木製で、周囲を取り囲む木の手すりに花と鳥の可愛らしい彫刻が施されていたのだ。真ん中には大きなテーブルが置かれている。


 初めて来たはずなのに、なぜか懐かしいような感覚がした。


「──で、何があった?」

「え?」


 横を見上げると、ボブは穏やかにソフィアを見下ろしている。


「少し元気がない」


 ソフィアはボブの指摘に驚いた。普通にしているつもりなのだけれど、自分はそんなに落ち込んで見えるだろうか。


「わかる?」

「わかるよ。ホームシックかな?」

「ううん、違うの。実は、楽器が決まらないの」

「楽器?」

「ええ。今日の夕方からの音楽会の」

「ああ、なるほどね」


 ボブは納得したように頷く。

 昨晩、音楽の試験のことを聞いてから、ソフィアはずっと胃が痛かった。

 ソフィアも幼い頃はヴァイオリンとピアノの家庭教師をつけていた。しかし、洪水後に借金を背負ったマリオット伯爵家には余裕がなく、その後は完全に我流だ。演奏できることはできるが、とても王太子殿下に聞かせられるレベルではない。


「実は、なにを披露するか未だに決めていなくて。あまり得意な楽器がないの。ピアノは弾けるけど、家庭教師も付けていないから独学だし……」


 なぜか、ボブには悩みも話しやすい。

 ピアノは弾けるけれど、音楽の先生に習ったのは八歳まで。その後は母に教わったり、一人で練習してきた。高いお金を払って有名な家庭教師をつけている貴族令嬢達と比較すると、とても聞けるものではないだろう。


 それを聞いたボブは顎に手を当ててうーんと唸る。


「歌はどう? フィーの歌声は、鳥が囀るような可憐さがあって、それでいてとても美しい」

「歌……?」


 ソフィアは戸惑ってボブを見つめる。

 ソフィアは確かに歌うのが好きだ。歌うと気分が明るくなるから、よく歌っている。洗濯の手伝いをするときも、畑を耕すときも、馬の世話をするときも、花を摘むときも。でも、なぜボブがそれを知っているのだろう。


「ボブは私の歌を聞いたことがあるの?」

「あるよ。前に口ずさんでいた」

「え? 本当に?」


 ソフィアは気恥ずかしさから頬を染める。ここに来てから人前で歌った覚えはないのだが、無意識に口ずさんでいたのかもしれない。


「歌などで大丈夫かしら? 皆、楽器だと思うわ」

「確かに、皆、楽器だろうな。でも、音楽を披露するのだから、歌でもいいだろう」

「そうかしら?」


 ソフィアは横にいるボブを見上げた。ボブは器用に片眉を上げてソフィアを見返す。


「フィーは裁縫の審査で皆が刺繍を出したときに違うものを出して大丈夫だったじゃないか。あれはなかなか個性的だった」

「み、見たの!?」

「見た。可愛く仕上がっていたよ」


 からかわれるかと思いきや、優しく微笑まれてソフィアはドキッとする。


(まただわ……)


 胸がどきどきして煩い。

 ソフィアは赤くなった頬を隠すように俯く。


(ボブって、本当に優しいな)


 ちょうど視界に入ったボブの革靴は、丁寧に磨き上げられて鈍く光っていた。

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