第52話 わたくしの王子様

 初めての出会いは、王宮の庭園の外れだった。


 七歳のソフィアはまだ背が低く、背の高い植栽がたくさんある庭園では周りが見渡せない。きょろきょろと周りを見渡したけれど、視界に映るのは花と木ばかりだった。


「困ったなぁ」


 ソフィアは小さく独りごちる。

 そのとき、風に乗ってとてもいい匂いがした気がした。もぎたてのシトラスのように爽やかだけれども、少し違うもっと魅惑的な香り。ソフィアは引き寄せられるようにそちらに向かう。綺麗なお花の咲いた木々をくぐり抜けると、角で突然男の子が飛び出してきてソフィアは驚いた。出会い頭に体がぶつかり、ポスンと尻もちをつく。


「あ、ごめんっ」


 慌てたような声がして見上げると、とても綺麗な男の子がいた。

 ソフィアは彼を見た瞬間、心を奪われた。理由を言えと言われたら上手く言えないけれど、目を逸らすことができない。

 薄茶色の髪は癖があり、ふわふわと風に揺れている。心配そうにこちらを見下ろす瞳は鮮やかなブルー。そして、ふわりととてもよい香りがする。

 ソフィアは同年代の子供と出会えたことでほっとした。これでお父様とお母様のところに戻れると思ったのだ。男の子が尻もちをついたままのソフィアに手を伸ばしたので、ソフィアはその手を握る。


「ううん、わたしこそよく見ていなくてごめんね」


 そう言った瞬間、ソフィアの手を握ったまま男の子は大きく目を見開いた。


「驚いた。聞き間違えじゃなかった。きみはとっても綺麗な声なんだね」

「え?」


 ソフィアは戸惑った。ソフィアの声はごく普通の声だ。


「そうかな? そういうあなたはとってもいい匂いがするわ」

「え? 洗濯の石鹸かな?」


 男の子は自分の袖を顔に近づけるとくんくんと臭いを嗅ぐ仕草をした。けれど、わからなかったようで首を傾げる。そして、お互いに目が合うとなんだかおかしくなって笑い合った。


「きみ、名前はなんていうの?」

「ソフィアよ。ソフィア=マリオット」

「ふうん。僕はロバート。そうだな……、ソフィアは特別にボブって呼んでいいよ」

「特別?」


 特別な呼び方をしていいと言われたことは、なんだかこそばゆい。今出会ったばかりのこの男の子とお友達になれた証のように思えた。


「じゃあわたしのことは──」


 と言いかけて、言葉につまる。ソフィアの名前に特別な呼び方などない。皆、『ソフィア』か『ソフィー』と呼ぶ。


「うーん、特別に『フィー』って呼んでいいわ」

「フィー?」

「うん、そう」

「わかった。よろしく、フィー」


 ボブは表情をくしゃりと崩すと嬉しそうに笑い、今度は握手するために手を差し出した。温かなその手を握る。自分の中の何かが回り始めたような気がした。


 王宮に滞在中、ボブはよく王宮の秘密の場所に連れていってくれた。


「ここは綺麗ね」

「うん。秘密の場所だよ」


 特によく連れていってくれたのは、庭園の外れにあるガゼボだった。そこで必ず見せてくれるものは──


「わぁ、凄い! これはアーサー王子? お姿を見たことがあるわ」

「うん、そう。凄くかっこいいだろ? 皆が『りりしく、うつくしい』っていう」


 ボブは自分を色んな姿に変えられるけれども、特にアーサー王子に変わることが多かった。金髪碧眼になったボブは得意げに笑う。それを聞いたソフィアは首を傾げる。確かに目の前のボブはとても見目麗しい。『神から遣わされた』とは、こういう王子に対して使うのだろう。でも──


「わたくし、普段のボブの方が好き。だってボブの方が優しそうだもの」


 元の姿に戻ったボブは、虚を突かれたような表情をしたが、すぐに嬉しそうに笑った。ソフィアはボブにずいっと近づくと、顔を覗き込む。


「アーサー王子はみんなの王子様だから、ボブはわたしの王子様ね」

「フィーの王子様?」

「うん」

「そっか」


 ボブは頬を掻くと、嬉しそうにはにかんだ。

 翌年、王宮を訪れたときに一番楽しみにしていたのはボブに再会できることだった。思い出の場所に行くと、鍵がかかっている。


「ボブ、いないなぁ……」


 待ち合わせの場所で待っていると、ぱたぱたと足音が聞こえる。少し遅れてきたボブは手に花を握っていた。 


「フィー、遅れてごめんね」

「ううん、いいよ」


 一年ぶりにその顔を見ただけで、気分は弾んだ。ボブはおずおずと、手に持っていたものを差し出す。それは、摘んだばかりのリモネの花だった。


「これは?」

「…………」


 きょとんとするソフィアに対し、ボブの顔は急激に赤くなった。


「兄上が──」

「うん?」

「兄上が前に、ヴィーに花をあげていたから、フィーも喜ぶかと思って……」


 だんだんと言葉尻にいくにつれて声が小さくなる。

 ソフィアはそのリモネの花と真っ赤になったボブの顔を見比べた。もしかして、自分へのプレゼントだろうかとようやく考えが至る。『ヴィー』が誰かは知らないが、きっと兄が女の子に花をあげているところを見て真似したのだろうな、と思った。


「綺麗ね。ありがとう!」


 ボブの目の前に手を差し出すと、頬を赤くしていたボブはパッと顔を上げてソフィアを見つめる。そして、いつものように表情をくしゃりと崩して笑った。


「リモネ、好き?」

「うん、好きよ。でも、すぐに萎れちゃうの」

「僕、植物を長持ちさせられるギフトを持っているから、長持ちするようにしてあげる」

「本当? ありがとう」


 ボブは軽くリモネに手をかざす。受け取ったリモネはピンク色と黄色の可愛らしい花を咲かせていた。それ以来、リモネはソフィアの中で『好きな花』から『一番好きな花』に格上げになった。


 ──いつか結婚しようね。

 ──いつかボブのお嫁さんになるね。


 それは、子供にありがちな他愛もない口約束だ。けれど、ソフィアはそうなると信じていた。もちろん、ボブもそう信じていたと思う。


 ──あの日までは。


 いつものようにボブと遊んでいたら、深刻そうな顔をした男の人達がやってきて王宮の一室に連れていかれた。どうしたものか、とか、困ったことだ、と言っている。眉を寄せた国王陛下までいて、子供のソフィアにも只事でないことはわかった。ふと目をやれば、部屋の端で泣きそうな顔をしたボブがいた。隣には、いつもボブが見せてくれる金髪碧眼の男の子がいた。


(あれが本当のアーサー王子かな……)


 そんなことを思っていたら、知らない男の人が近くに来て、ソフィアの額に手をかざす。そこで意識はぱったりと途切れた───。




 二度目の出会いは、大雨の中で雨宿りをしている最中だった。


 久しぶりに訪れた王都で昔から好きだったリモネの花畑を見つけて花摘していたら、天気が急変したのだ。

 大雨も厭わずにソフィアへの元へ駆け寄り、自身がびしょ濡れになりながらもこちらを気遣うその姿を一目見ただけで、今まで感じたことがないような衝撃が走った。姿は違ったし、記憶もなかったけれど、確かにソフィアはを感じた。


 ──そして、まるで最初から決まっていたかのようにすぐに恋に落ちた。


 握られた手は心地よく、触れられればそこから熱を持ったような温かさが広がる。抱きしめられれば蕩けるような幸福感を覚えた。


(わたくしは、この人が好きなのだわ)


 それはとても自然に湧き起こった感情で、ひとつひとつの記憶は宝石のように煌めいていた。





 三度目の出会いは──……。

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