第37話 不思議な男の子

 部屋に戻ったソフィアは、暫く逡巡してからメルに声を掛けた。


「ねえ、メル」

「なんでございますか?」

「メルは昔王宮に来たときのことを憶えている?」

「憶えておりますが、ずいぶんと昔のことなのでだいぶ忘れている部分もありますわ。毎年社交シーズンになるとよく来ていました」


 ソフィアの濡れたドレスの全ての紐を緩め終えたメルが「さあ、脱いでくださいませ」と促す。ソフィアはストンとドレスを脱いだ。


「ねえ。そのときにわたくし、ボブと遊んでいた?」

「ボブ? ああ、先日送ってくださった親切な近衛騎士の方からソフィア様が『ボブ』と呼べと軽口を言われていたときも、懐かしい名前だなと思ったのです。昔、ソフィア様が一人で王宮の庭園に行かれるときに限ってその名前を聞きました。わたくしは会ったことがありませんわ」

「わたくしが一人のときに遊んでいたの?」

「はい。最初は、ソフィア様が庭園で迷子になったときでしたわ。旦那様と奥様と散々探しまわっていたのに、ソフィア様ったらなんともない様子で戻ってきて。何をしていたのかと聞いたら『ボブと秘密の場所で遊んでいた。いい匂いがしたからそっちに行ったら、ボブがいた』って」

「それ、いくつくらいの頃の話?」

「わたくしが八つか九つの頃です」


 メルはソフィアの一つ年上だ。となると、ソフィアが七つか八つのときに王宮でロバート王子に出会ったのだろうか。思い出そうとしても、思い出せなかった。

 メルは用意したドレスをソフィアに着せると、背後に回って紐を締め始める。腰の辺りからギュッと締め付ける感覚がした。


「今思い返しても、ボブは不思議な男の子でしたわ」

「不思議?」

「はい。ソフィア様がお一人のときしか現れないし、どんな方なのかを聞いても一向に要領を得ないのですもの」

「そうなの?」


 ソフィアは首を傾げる。もしもそのボブがロバート王子ならば、当時のソフィアは王子様と遊んでいることを周りに秘密にしなければいけないと思っていたのだろうか。


「はい。あるときは金髪碧眼の綺麗な男の子だって言ったと思えば、次のときには短い茶髪で優しい顔の男の子だって言ったり。だから、わたくしは『ボブ』はソフィア様の空想のお友達だと思っておりました」


 メルはそのときのことを思い出したのか、紐を締める手は動かしたままくすくすと笑った。そして、「本当にあの子はいたのかしら?」と呟く。


「あるときは金髪碧眼で、あるときは短い茶髪の男の子……」


 なんだろう。ずっと頭の片隅でつかえていた何かが取れそうで取れないような感覚がする。すっきりしそうなのにすっきりしない、不思議な感じだ。


「はい。できました」


 メルは一番上まで結び終えると、リボンの形を整えてくれた。


「どうしてそんなに昔のことをお聞きに?」


 不思議そうにこちらを見つめるメルに、ソフィアは言葉を詰まらせる。自分にそのときの記憶がないし、なんと説明すればいいのかがわからなかったのだ。


「その、わたくしがボブと遊んでいたって話を偶々会ったここの人から聞いたの」

 メルは目を丸くすると「あらっ」と言って口元を手で押さえた。

「なら、本当にボブはいたのですね。確かによく遊んでいたようだから、昔を知る王宮の方ならその様子を見て知っていてもおかしくないわ」


 そして、こちらを見つめてにこりと笑う。


「よく、ソフィア様は『将来はボブのお嫁さんになるの』と仰ってましたわ。なんでも、『わたしの王子様だから』とか言って。懐かしいわ。それなのに、あるときからパタリと言わなくなって」

「それって、洪水で記憶喪失になったからではなくて?」

「いいえ。もう少し早かった気がしますわ」

「そう……」


 自分はロバート王子を『わたしの王子様』だと言った?

 それはロバート王子がいうように、ギフトが最愛だと告げたからだろうか?

 しかし、それならなぜ自分はあの魅惑的な香りを複数の人から感じるのだろう。それに、どうしてパタリと言わなくなったのだろう。


 ソフィアは右手を挙げておでこに手を当てた。とても大切な思い出を忘れている気がする。けれど、どんなに考えても、どうしても思い出すことができなかった。

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