暁に咲く(二)

 その瞬間、わが身を貫いた感情をなんと呼べばいいのか、文昌ぶんしょうにはわからなかった。


 心底を見すかすような台詞を吐いた少年への怒り。焦りと狼狽。あるいは羞恥。それらすべてをねじふせ、文昌は苦いつぶやきをもらす。


「……それは違うな」


 邪魔より、なお悪かった。


 はじめて会ったときから、この少年には漠とした違和感を覚えていた。とらえどころのないその感情が、はっきりした形をとって現れたのは、一日前の軍議の席でのことだ。


 江夏こうかの民を見捨てるという策が子怜しりょうの口からすべり出たとき、文昌がまっさきに抱いたのは強烈な嫌悪感。加えて、底なしの恐怖だった。


 は違う、と思った。ひとの姿をしているだけで、これは自分たちとはまるで相容れないものだと。


 もしもいま、と、文昌の胸の奥で激情の残り火がゆらいだ。


 この少年の肩を押してやったらどうなるだろう。少しだけ、ほんの少しだけ力をこめて押すだけで、この小さな身体は簡単に柵の向こうへ落ちていくことだろう。


 ゆっくりと、文昌の腕が持ち上がる。それを追う子怜の視線が、ふっと横にそれた。


「なっ……」


 はじかれたように柵から身を乗り出した子怜の身体を、文昌はとっさに抱きとめた。


 何をすると、叱りつけようとしたところで、文昌もそれに気づいた。


 眼下に流れる璃江りこうの上流から、灰色の影がすべるように近づいてくる。ひとつではない。二十、三十、いやもっとか。川霧の向こうから続々と姿をあらわしたそれは、大きさも形も異なる船の群れだった。


 船団の先頭に、紅い旗がひるがえる。曙光を浴びてはためく旗にあるは「陳」の文字。


 陳王嚇玄かくげんの軍が、江夏城へ押しよせつつあった。朱圭しゅけいが示した尭谷ぎょうこくず、水路によって。


 文昌は腕の中の少年を見た。食い入るように川面を見つめる少年の白い顔もまた、暁光を受けて血の色に染まっていた。その唇がうっすらと笑んでいるように見えたのは、文昌の気のせいではあるまい。


 ――義兄上あにうえ


 文昌は胸のうちで呼びかける。


 あなたの気持ちが、少しだけわかったような気がしますよ、と。


 文昌は望楼に吊り下げられているつちを手にとった。ひやりとしたはがねのそれを、頭上の鐘に思いきりたたきつける。


 甲高い鐘の音が払暁の空に響く。江夏城攻防戦の、それが幕開けだった。

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