君に捧ぐは花燈籠(八)

 呼んでどうなる。


 その問いに、迅風じんぷうは頭の芯が痺れたような心持ちになった。


「……なに言ってんだ、おまえ」

「だからさ」


 淡々と、子怜しりょうはその言葉をくりかえす。


「迅風を呼んで、それでどうなるの?」

「おまえ……」


 ふざけんなと言いかけて、迅風は唐突に悟った。


 ――こいつ、本気だ。


 ぞわりと、迅風の背筋が粟立った。


 目の前の少年は本気だった。本気で、心の底から不思議がっていた。


 声をあげて、助けを求めて、それで何が変わるのかと。


 迅風は知っている。この少年が、いっそ死んだ方がましと思えるほどの扱いを受けてきたであろうことを。


 そのくらいのこと、胸もとに広がる火傷跡と、背中に走る無数の鞭傷を見れば容易に想像がついた。左肩に当てた布を替えてやったとき、嫌でも目に入ってきた惨たらしい傷跡。


 辛かっただろう。苦しかっただろう。わかってはいたが、迅風は必要以上に少年を憐れむまいと決めていた。


 食うや食わずの暮らしをしている者など掃いて捨てるほどいる。体を売って生きる子どもだって珍しくはない。


 おまえだけじゃない。地べたを這いずり回って、それでもなお生きようとあがいている者は。


 だが、迅風は肝心なところを理解していなかった。この少年が、とうに心を葬ってしまっていることを。


 助けを求めたところで何も変わらない。誰も救ってなどくれない。だから、声をあげなかった。そんな、何もかもを諦めている人間が、はたして生きていると言えるだろうか。


「おまえさ……」


 かける言葉が見つからなかった。


 子怜の肩に手を置き、地面にへたりこんだところで、踏みつぶされた面が視界に入った。獄卒の面だ。黒と朱で縁どられた両眼が、このときは泣いているように見えた。


 迅風は面を拾いあげ、泥をぬぐって子怜に差し出した。今この少年にしてやれることは、それくらいしか思いつかなかった。


「迅風」


 か細い声がふってくる。


「ありがとう」


 がばりと顔をあげると、子怜が大事そうに指先で面をなでていた。それこそ仮面のような、感情の読みとれない顔で。だが、迅風は見逃さなかった。その唇が、ほんのわずかにほころんでいることを。


「……呼び捨てやめろ」


 迅風は立ちあがりざま、うめき声をもらして起きあがろうとしていた暴漢の鳩尾を蹴飛ばした。ぐえ、と男は再び地に沈む。


「てめえら、王家軍うちの身内に手え出してただで済むと思うなよ」


 すごんだところで、伯英はくえいの拳が飛んできた。


「おまえもだ、迅風。今度こいつを危ない目にあわせたらどうなるか、わかってんだろうな」

「はい! 兄貴!」


 王虎将軍の二つ名にふさわしい剣呑な眼つきを前にして、迅風は背筋をのばした。


「じき文昌ぶんしょうがくる。そしたら、おれたちでこいつらを官衙に突き出してくるから、おまえたちは先に帰ってろ」

「わかりやした!」


 もう一発食らう前にと、迅風は子怜の手をつかんでその場を立ち去った。子怜は嫌がるかと思いきや、素直に手を引かれてついてくる。


 表通りに出ると、道行く人の数はずいぶん減っていた。祭りの屋台もそろそろ店じまいをはじめている。


「おい、子怜」

「なに」


 可愛くない返事だ。愛想のかけらもない。だが、つかんだ手はちゃんと握り返してきている。


「花燈籠、だめにしちまったろ。もうひとつ買ってやるよ」


 まだ開いている店はあるだろうかとあたりを見渡した迅風だったが、返ってきたのはにべもない拒絶の言葉だった。


「いらない」

「……やっぱりおまえ、可愛くねえな」


 それきり二人は無言で歩いた。まばらになった人の間を。手をつないで。

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