第三章 春靄に惑う

春靄に惑う(一)

 ぱちり、と小気味よい音とともに盤上に黒石が置かれた。黒白の石がせめぎ合う盤上の戦。その形勢は五分と五分。いや、今の一手で黒がやや優勢となったか。


「やるな」


 床についた肘に頭をのせて寝そべったまま、伯英はくえいは対戦相手に声をかけた。盤をはさんで向かいに座る子怜しりょうは、無言のまま盤面を見つめている。


 空に薄雲ひろがる昼下がり、開け放った窓から流れこむ風はぬるく、湿り気を含んでやや重い。


 伯英はひとつあくびをもらし、のそりと体を起こした。手のなかで白石を弄びつつ盤をのぞきこみ、ややあってうなり声をあげる。


「……おい」


 黒が優勢どころの話ではなかった。勝敗は既に決している。これから白がどう攻めようと、そのすべてに対して鮮やかな反撃が用意されていることは明らかだった。


「まいった。おれの負けだ」

「まだ」


 澄んだ声が返ってくる。


「手はある」

「本当かよ」


 細い指がひらりと盤上を舞った。


「ここに一手。そのあと、ここに打たれたら、ちょっと面倒」


 伯英は盤面をにらみ、養い子の指摘が正しいことを確認した。


「どうする」


 続けるか、と眼で問われて伯英は首を横にふった。


「敵に教えられた手で戦えるかよ。どのみち、おれの負けは決まりだろ」


 伯英は床に置いてあった酒杯をとりあげ、子怜の眼の高さにかかげてみせた。


「強くなったなあ」


 賞賛の言葉にも、子怜は特に表情を変えるでもなく黙々と盤上の石を拾っている。だが、白い頬がかすかに上気しているところを見るに、それなりに喜んではいるのだろう。わかりにくいが、根は素直なやつだと伯英は思っている。


「もう置き石五つじゃ敵わんな。次からは四つにしてみるか」


 今のところは力の差がありすぎるため、子怜と囲棋を打つときは先に黒石をいくつか置かせてやっている伯英である。


「いいよ。すぐやる?」


 問いかけの形をとった催促だ。その証拠に、子怜の瞳が期待に輝いている。こういうところも見ていて微笑ましい。


「ちょっと休んでからな。頭が疲れた」


 子怜は聞き分けよくうなずくと、盤に石を並べはじめた。待っている間にひとりで策を練るつもりらしい。


 暇にまかせて教えてやったこの遊戯に、養い子の少年はすっかり心を奪われたようだった。放っておけば日がな一日、こうして盤に向かっている。おそろしいほどの速さで腕をあげる教え子に、師である伯英が追い越されるのもそう先のことではないだろう。

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