春靄に惑う(二)

 祭りの日に県丞けんじょう永忠えいちゅうが訪ねてきてから、かれこれ半月が経っていた。


 しばらくのんびりすると永忠に宣言したとおり、伯英はくえいはこうして昼間から酒杯をかたむけつつ、養い子と囲棋に興じる日々を送っている。


子怜しりょう


 名を呼ぶと、少年は盤から顔をあげた。


「囲棋は好きか」


 子怜は黙って首をかしげた。


「おもしろいんだろ?」


 伯英は辛抱強く問いを重ねた。


 この少年と話していると、ときどきあいだに山でもはさんでいるような心持ちになる。こちらの声が届くまで、そしていらえが返ってくるまで、たいそう時がかかるのだ。なんてまだるっこしい、と迅風じんぷうなどは腹をたてているようだが、伯英はむしろこの迂遠なやりとりを楽しんでいた。


「……わからない」

「わからない? 難しいってことか?」


 子怜はかすかに首をふった。


「好きかどうか、まだわからない」

「まだ、ねえ」


 また愉快なことを言い出したな、と伯英は笑って杯を干す。


「いつわかるんだ、そいつは」


 意地の悪い問いだったかもしれない。じっと考えこむ少年の眉間を、伯英は指の腹でつついてやった。


「そう難しく考えるもんじゃないさ。一日中やってて飽きないんだろ? だったら好きでいいんだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。ま、安心したぜ。その分なら、うまくやっていけそうだな」


 怪訝そうな顔をした子怜に、伯英は笑みを返した。


「おまえの預け先が決まってな」


 ぴし、と秀麗な面に見えないひびが入った音が聴こえた気がしたが、伯英はかまわず続けた。


文昌ぶんしょうが見つけてきたんだよ。ろうの商人ではん家という。そこで隠居した爺さまの身の回りの世話をする童子を欲しがっているんだそうだ。なかなかに偏屈な爺さまらしくて、殊にうるさいやつが大嫌いなんだそうだが、その点おまえなら大丈夫だろう。おまけに、その爺さまは無類の囲棋好きだってんだから、ますますおまえにうってつけじゃないか」


 子怜は黙りこんだまま長い睫毛を伏せている。その視線の先にあるのは、複雑に入り組んだ黒と白の陣。伯英の眼には、どちらが優勢なのかまるでわからなかった。


「それに永忠どの……あの小遣いくれた御仁と潘家の爺さまは囲棋仲間らしいから、またちょくちょく会えるぞ。おまえはどうか知らんが、永忠どのはおまえのことを気に入ってるみたいだし……」


 山、えらく高くなったな。話しながら、伯英はそんなことを考えていた。目の前にいきなり断崖絶壁があらわれたような気分だ。こちらの声が届いているのか、まるで心もとない。


 不意に子怜が顔をあげた。その唇がかすかに動いたとき、からりと扉が開いて文昌が顔をのぞかせた。


「伯英どの……」


 その場に漂う、どこかぎこちない空気を感じとったように文昌は言いよどんだが、すぐに再び口を開く。


「ご相談がありまして。今よろしいですか」

「ああ」


 伯英は立ちあがった。


「むこうで聞こう。悪いな、子怜。あとは迅風にでも相手をしてもらえ」


 そう言って立ち去る自分が、度し難い卑怯者に思えて仕方なかった。

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