春靄に惑う(三)

 昼間、不用意にあんなことを言ったせいだろう。伯英はくえいは腕を組んで盛大にため息をついた。


「あのな、子怜しりょう


 ねだいの上に、小柄な少年がちょこんと座っている。燭の灯に照らされた顔はぞっとするほど美しく、これが女なら一国どころか十国くらいまとめて傾けそうだと、伯英はらちもないことを考えた。


「おれは別に、そういうつもりでおまえを置いているわけじゃないぞ」


 一日を終えて寝床へもぐりこもうとしたところで、小さな侵入者に気づいたのである。養い子がどういうつもりで自分のもとへ忍んできたのかは明白だった。


 桁外れの美貌を誇る少年を手もとに置いていることを、口さがない連中が何と噂しているかは知っている。神経質な文昌ぶんしょうなどは、その噂を打ち消したがっており、だからこそ熱心に子怜の預け先を探し回っていたふしがある。


 だが、当の伯英は気にしていなかった。むしろ、自分の所有物ものだということにしておけば、養い子に手を出す輩もいなくなって好都合と考えていたくらいだ。


 しかし今、伯英の目の前で噂が現実になりつつある。それはまずかろうよ、と伯英はがしがしと己の髪をかきまわした。


「自分とこへ帰んな」


 子怜は黙って伯英の顔を見あげていたが、ややあってするりと身を寄せてきた。


「こらこら」


 華奢な体を押し戻そうとしたが、逆にぎゅっと腕をつかまれた。


「……お願い、だから」


 思いのほか強い力でつかんでくるその手は、小刻みに震えていた。


「追い出さないで……なんでもするから」


 まいったな、と伯英は天井を仰いだ。はじめから、この少年には負けっぱなしである。


「ちょっと話すか」


 離れてくれそうにないので、いっそのこと、と引き寄せた。小さな背中を抱え、ちょうどいい高さにあった頭にあごをのせる。


「おれはな、おまえのことが邪魔だから追い出すわけじゃないぞ。むしろ、気に入ってる。恩人てことを抜きにしてもな」

「だったら……」

「まあ聞け。おまえも耳にしてるだろうが、今な、ちと厄介なことになってんだよ」

「……ちょう都督ととくていうひとのこと」

「そうだ」


 文昌がほうぼうに人を遣って調べたところによれば、趙都督の使者は県境を越えたらしい。もうじき、このろうの街にたどり着く。


「その使者とやらが来る前に、おまえにはちゃんとした落ち着き先を見つけてやりたいんだよ。事によっちゃあ、もうおまえの面倒を見てやれなくなるからな」


 今回の件では永忠えいちゅうも奔走してくれているが、正直なところ、伯英はあまり当てにはしていなかった。永忠を信頼していないわけではない。県丞の立場では、できることに自ずと限界があることを知っているだけだ。


 最悪、投獄あるいは処刑ということになるかもしれない。もとより覚悟の上だ。自分だけでなく、あの企てに関わった者は全員。


 それでも黙って殺されてやる気はないので、いざとなればどうにかして逃げるつもりではいる。ただ、さすがに子どもを連れては行けない。


「わかったら、おとなしく潘家に行ってくれないか」

「わかんない」


 いつもより幼い反応に、伯英は苦笑する。


「わかってくれないもんかねえ」

「わからないよ」


 腕の中で子怜が身をよじった。


「なんで伯英が戦わないのか、わからない」


 薄闇の中で、艶のある黒い瞳がひたとこちらを見すえていた。

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