薫風は南より(九)

 家にもどると養い子はまだ起きていた。昼は王家軍の兵営で過ごし、夜は伯英はくえいの家で通いの老婆に面倒を見てもらっている子怜しりょうである。


 遅くなるから先に寝てろと言ったのに、と口にしかけた小言を、伯英は途中で呑みこんだ。


 月の明るい晩だった。燭も灯していない房間へやで、子怜は窓辺にもたれて夜空を見上げていた。


 皓々たる月光のもと、物思いにふける少年の横顔はろうとして美しく、確かに、と伯英は胸のうちで嘆息した。こいつに平凡な生は送れまいと。


 伯英が声をかけようとしたところで、子怜はつと腕をあげた。そのまま絵を描くように、虚空に指を走らせる。やがて子怜は腕をおろし、いましがた描いた見えない絵にじっと眼を凝らした。


「子怜」


 呼びかけると養い子はふりむき、わずかに表情をゆるめた。


「なにやってんだ、おまえ」

「地図をいてた」

「地図?」

常陽じょうようの」


 昼間、迅風じんぷうに教わった常陽周辺の地理を、空に描いていたという。


「難しそうなことやってんな」


 子怜の隣に腰をおろすと、触れた肩が冷たかった。季節は晩春とはいえ、夜風は体に毒だ。伯英は着ていた衣を一枚脱いで薄い肩にかけてやった。衣にくるまりながら、子怜はなおも夜空の地図を見つめている。


「うまく描けたか?」


 尋ねると、子怜はこくりとうなずいた。


「じゃ、そろそろ寝るぞ。子どもが夜更かしするもんじゃない」


 窓を閉めようとしたところで「待って」と止められた。


「いま、いいとこ」


 ますます訳のわからないことを言う。子怜は腕を上げて虚空を指差した。


「ここに、伏兵を五百おいている。あと三手で勝てる」


 伯英は養い子の顔をまじまじと見つめた。白い頬にうっすらと血の気が透け、濡れたような黒い瞳がかがやいている。囲棋の盤をはさんでいるときに、よく見せる表情だった。


「模擬戦やってるのか」


 地図の上で兵馬に見立てた駒を動かす模擬戦。それを子怜は見えない地図と駒をもってくりひろげているらしい。伯英には月と星しか見えない空だが、この少年の目には、まるで異なる景色が映っているのだろう。


「そんなこと誰から教わった」


 あの変なひと、という返事を聞く前から答えはわかっていた。


 あの野郎、と伯英は朱圭しゅけいのへらりとした笑顔を苦々しく思い浮かべる。伯英が諾とも否とも答える前に、あの男はすっかり子怜を弟子にするつもりでいるようだ。


「おもしろいか?」


 おもしろい、と即答されて、伯英は少しばかり感動した。何がおもしろくて好ましいのか、この養い子の中でようやく基準が定まったらしい。


 細い指が宙をすべる。それが決め手だったのか、子怜は満足げにうなずいて伯英の胸に頭を預けた。


「やっと勝てた」

「そりゃよかったな。いつからやってたんだ」

「昼から」

「おいおい、ちゃんと飯食ったか?」


 囲棋に興じているときもそうだが、この少年は目の前のことに夢中になっていると、しばしば食事も忘れてしまうのだ。


「食べた」

「なに食べた」

「豆粥」

「うまかったか」

「しょっぱかった」

「おまえのお師匠さんのしわざだ。てか、そりゃ昼飯だろ。夜は」


 返事はなし。目をそらしたところを見るに、怒られるだけのことをした自覚はあるのだろう。養い子の頭を小突いて、伯英は深いため息をついた。


「とりあえず、おまえを放っておくといろいろまずいことはよくわかった」


 かなうことなら平穏な暮らしを。その願いに嘘はない。だが、誰よりもそれを裏切っているのが自分自身だということはわかっていた。この危なっかしい少年をろうに残していく気など、はなからなかったのだから。




 伯英率いる王家軍三千が常陽へ進発したのは、それからひと月後のことだった。沿道で一行を見送る人々は、王虎将軍のかたわらで馬を進める美貌の少年の姿に、こぞって感嘆の息をもらしたという。

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