玉蘭花伝
小林礼
序章
炎夜
――綺麗だ。
はじめて「それ」を目にしたとき、頭に浮かんだ思いはただそれだけだった。
「それ」はひとの形をしていた。上背のある男の姿だ。その身をつつむ甲冑は血にまみれ、手にさげた剣からも、やはり赤黒い血がしたたっていた。
血だまりのなか、男の足もとに、ごろりと丸いものが転がる。いましがた男が斬り落とした、そして少し前まで鼻息も荒く自分にのしかかっていた、この屋敷の主の生首だった。
「おまえ」
男の口から低い声がすべりでる。深みのあるその声の底には、かすかな当惑が沈んでいるようだった。
「なにを笑っている」
言われてようやく気づいた。自分が微笑んでいることに。
遠くのほうから、叫び声が聞こえた。入り乱れる悲鳴と怒号。ごう、とうなる風。それらに混ざって、ぱちぱちと火がはぜる音が耳を打つ。どこからか漂う、つんとした刺激臭。
屋敷が燃えている。
不意に、首筋に固いものが押し当てられた。生温かい血に濡れた、硬い鋼の感触。
――殺される。
そうと悟ったとき、わが身をつらぬいた感情をなんと呼べばよかっただろう。
――早く、
早く、この首をかき斬ってほしい。その身にまとう鮮やかな朱に、己が血の色を加えてほしい。喉笛に牙をたて、血をすすり、肉を喰らってほしい、と。
懇願するように男を見上げた、そのときだった。視界の隅に、のそりと動く人影をとらえたのは。
いかにも鈍重に、しかし音もたてずに動くその影は、襲撃あることを恐れていた屋敷の主が雇った護衛だった。あいにく主の命を守ることはできなかったが、せめてもの義理立てのつもりか、護衛の男は剣をかまえ、侵入者の背後にしのびよった。
だめだ、と、考えるより先に身体が動いた。とっさに立ち上がったのと、侵入者の男がふりむいたのと、どちらが早かっただろう。
奇声を発して剣をふりおろした護衛と男の間に身を割りこませた刹那、左肩に焼けるような痛みが走った。
目の奥で白い光がはじけ、次いで赤く染まった。息が止まり、ひざが崩れる。そのまま倒れかけた息がつまり、ひざから力が抜けた。そのまま床に崩れ落ちた身体を、力強い腕が抱きとめてくれる。代わりにどうと倒れたのは護衛の男だった。
よかった、間に合ったと、ほっとして見上げた先で、猛獣のような双眸がきらめいていた。
――ああ、
すべての音が遠のき、目に映るすべてが輪郭を失うなか、その光は、その色だけは最後まで鮮やかだった。
――やっぱり、綺麗だ。
途方もない安堵につつまれながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。
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