薫風は南より(四)

 いくさが近い。


 迅風じんぷうに詳しい話を聞くまでもなく、周囲の人々のたかぶった顔つきや慌しい足どりから、子怜しりょうはそれと悟っていた。


「ここだよ。ここが常陽じょうよう


 子怜の目の前で、迅風が地面に木の枝で地図を描いている。


 いつものことながら、この男は忙しいのか暇なのかよくわからない。こちらから何かを尋ねに行くと「あとだ、あと」と、すげなくあしらうくせに、そうかとうなずいて立ち去ろうとすると「どこ行くんだ、おまえ」と、襟首をつかんでくるのだから。


「ここから南にずっとここ、江夏こうかてとこまで行って、璃江りこうを渡る。したら、あとはすぐだな。慶安けいあん郡の郡城があるとこだよ」


 迅風は木の枝でがりがりと土をひっかく。


「でけえ戦になるぞ。兄貴もたいしたもんだぜ」

「迅風」


 呼び捨てやめろ、と即座に返ってきた。いつになったらあきらめるのかと思いつつ、子怜は迅風に尋ねた。


陳王ちんおうて誰?」

「ばか」


 迅風は木の枝で子怜の頭をかるくたたいた。


「そんな呼び方してると役人にどやされるぞ。王だのと称してやがるが、所詮は叛乱軍の頭目さ。たしかかくとかいったな。嚇の野郎で充分だぜ」

「じゃあ、その嚇って、どんなひと?」

「悪いやつさ」


 あ、そう、と子怜は早々に質問を打ち切った。あとで伯英はくえい文昌ぶんしょうに訊こうと考えていたところで、頭上から陽気な声がふってきた。


「名は嚇玄かくげんという。山賊あがりの男だけど、これがなかなかの軍略家でね」


 見上げれば、浅黒い肌の男がにこやかに笑っていた。


「蜂起したのは三年前。以後その勢いはとどまるところを知らず、昨年とうとう郡城の常陽をとしてしまったのさ。陳というのは、かつて慶安一帯を支配していた国で、嚇玄はその王族のすえだとふれまわっているけど、まあ、このへんはでっちあげだろうね」

「なあ、あんた」


 迅風がうさんくさそうな眼で男を見やった。


「あんた、たしか趙都督の使者だよな。なんでこんなところにいるんだよ」


 こんなところ、とは王家軍の兵営である。出入りはそう厳しくは制限されていないが、余所者よそものがみだりにうろついていい場所でもない。


「これはご挨拶が遅れまして。わたしは朱圭しゅけいと申します。どうぞよろしく、迅風どの」

「なんでおれの名まえ知ってんだよ」

「だってあなたは有名ですから。なんでも王虎将軍の右腕だとか」

「お、おう。まあな」


 迅風はとたんに相好をくずした。


「それで、きみが王虎将軍のとっておきか。なるほど、綺麗な顔をしているねえ」


 朱圭と名乗った男はしげしげと子怜を眺めおろした。


「きみ、長徳で拾われたんだって? どういういきさつで……」

「おい」


 剣呑な気配を漂わせて一歩前に出た迅風に、これは失敬、と朱圭は笑って手をふる。


「なんで」


 その迅風の背中ごしに、子怜は問うた。


「なんで伯英が行くことになったの」


 二対の眼が子怜に向けられる。ひとつは苦々しげな、もうひとつは愉快そうな光をたたえて。


「簡単だよ。慶安には、もうまともな軍が残っていないから。だから高名な王虎将軍にお頼みすることになったのさ」

「それから?」


 朱圭の眼から光が消えた。口もとには変わらぬ微笑を浮かべつつ、朱圭は尋ね返してきた。


「王虎将軍から何か聞いたのかな」


 子怜は黙って首を横にふった。


「本当に? わたしのことは何も言ってなかったかい」

「あなたのことは、少し。いつも笑ってるって」

「そういう性分でね」

「だから、気をつけろって」


 ――ああいう手合いは、笑いながら背中を刺してくるからなあ。


 そう伯英がぼやいていたのは昨夜のことだ。何をどう気をつければいいのかと尋ねたら、そのうちわかるさと笑われて、また髪をくしゃくしゃにされた。


「なるほどねえ」


 唇の端をつりあげた男を前にして、子怜は昨夜の言いつけの意味がなんとなくわかった気がした。

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