純白に染む(三)
男は、
「王伯英だ。生まれは
男は薬湯とうすい
「まずは礼を言わせてくれ。おまえのおかげで命びろいした。感謝する」
何を言われているのか、よくわからなかった。空になった椀の底と男の顔とを交互に見くらべ、ぽつりとたずねる。
「……殺さないの」
男が一瞬息を止めたのがわかった。
「殺さないの。ぼくのこと」
伯英はまじまじと自分の顔を見つめ、それから顔をゆがめた。怒っているように、笑っているように。
「阿呆」
大きな手がのびてきて髪をくしゃくしゃにかきまわされた。
「殺す気なら、こんな手間をかけるかよ。あそこに転がしときゃ、じき死んでたんだから」
それでもよかったのに、と思ったが、口には出さなかった。言えば、この男は怒るだろう。なんとなく、そんな気がした。
「おまえ、何を勘ちがいしてるのか知らんが、おれたちは盗賊じゃないぞ。まあ、あの状況じゃそう思われても仕方ないがな」
夜更けに屋敷に押し入り、主を殺し、火を放って逃げた。伯英と名乗る男の行いは、まるで夜盗のそれであった。だが、ちがうのだと男は語った。
「
「軍……?」
「おうよ」
伯英はうなずいた。
「
その軍も将の名もはじめて耳にするものだったが、すぐに気に入った。王虎将軍。猛獣のようなこの男にぴったりの名だ。
「おまえ、名は。いくつになる」
どちらの問いにも、すぐには答えられなかった。
「年は……わからない」
「そうか」
あたりまえのように伯英はうなずいた。己の年もわからぬ捨て子など、めずらしくもないのだろう。
「だいたい十くらいか。名は」
「まえに……」
しばらく考えた末、かさつく唇を動かす。
「まえにいたところでは
「なんだそりゃ。女じゃあるまいし」
あきれた声をあげてすぐに、伯英は「悪い」と詫びた。
「おまえのせいじゃないもんな。辛の野郎の悪趣味ぶりも徹底してるぜ。あんな変態野郎につけられた名なんて忘れちまいな。本当はなんていうんだ?」
その問いにも、やはり首をかしげるしかなかった。おそらくこの男が言う「辛の野郎」とは、つい先日まで自分の主だった男のことだろう。一年ほど飼われていたが、いまとなっては顔も思い出せない。
麗々。その名をつけた主人はもういない。では、その前、あの屋敷に連れてこられる前、自分はなんと呼ばれていただろう。だが、いくら頭をひねっても、まるで思い出すことができなかった。いや、そもそもあの場所で自分に名などあっただろうか。あの、暗くよどんだ沼底のようなところで。
「悪かった」
ぽんと頭をたたかれ、我に返った。顔をあげると、伯英の大きな笑みが間近にあった。
「とりあえず養生しろ。傷は深いが、幸い大事なところははずれている。あと半寸ずれていたら左腕が使いものにならなくなっていたそうだ。おまえは運がいい」
ひとしきり傷の具合について説明してくれたところで、伯英は「ところで」とたずねた。
「おまえ、家族とか親戚とか、ただの知り合いでもいいが、とにかく頼れる先はあるのか」
これには即座に答えることができた。
「ない」
「そうだろうな。だが、心配するな。おまえの今後のことはちゃんと考えてある。おれたちはじきに
「いやだ」
するりと、その言葉が口からすべりでた。伯英は意外そうに目をしばたたかせたが、一番おどろいているのは自分だった。
生まれてこのかた、他人の意見に異を唱えたことなどなかった。そもそも、自分はこうしたいと主張したことすらなかった。だが、同時に「なんだ」とも思った。存外簡単なものなのだな、と。
「あなたのそばにいる」
目の前にある事実を、そのままなぞるように口にした。
伯英はしばらく黙ってこちらの顔を見つめていたが、ややあってあごをなでた。
「まいったな」
ため息まじりの声が降参のしるしだと、誰に教えられるまでもなくわかっていた。
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