18.世界を変える
皐月の言葉の意味を、律はフル稼働を始めた脳で思考する。
これまで律の能力は、律が認識する世界にしか働かなかった。
今の皐月と出会った――否、〝創り出された〟当初、母親と会話した場面もまた律の脳による妄想だった。
しかし、達人の技を情報として視覚から取り入れ、自身の体捌きへと活かす。夢の中の男と対峙した際に身につけ、人狼の攻撃を躱すためにも用いたこの能力は、律の世界だけに限ったものと言えるだろうか? いや、神業級の回避を連続で行う律の動きは、現実の世界にも反映されているはずだ。なぜなら今、こうして思考できていることが何よりの証左だ。〝攻撃を回避していること〟が律の妄想内だけの出来事であるならば、律はとうに殺害されているだろう。そして律が既に死んでいるならば、妄想することもできない。まさに我思う故に我在り、だ。
半ば言われるがままに皐月の助言を取り入れていた律は、なぜ実際に回避ができるのかに疑問を抱いていなかった。
それまでの説明と律の理解ならば、達人の動きを取り入れても、それが可能なのはあくまで妄想の中、律の世界の中だけであったはずだ。
だが律は既に〝達人の動きを取り入れ、驚異的な回避をする〟という形で、能力の一端を現実で使用しているのだ。
つまり、これを突き詰めて考えるならば、律の
気づいた時、律は全身を思わず震わせた。ようやく自分の能力が、恐ろしい可能性を秘めていることに思い至ったのだ。
もしかすると田中が皐月を認識できるのも、〝皐月の幽霊〟という律の妄想が現実へと干渉しているのかもしれない……と考えたとき、一際大きな音とともに周囲へ地響きが走った。
見れば込め振り下ろされた人狼の爪が、余程力を込めたのだろうか、硬いアスファルトへと深々と刺さっていた。田中は振り下ろされた腕のすぐ傍で荒い息を吐いている。
ぐっと脚に力を入れた人狼は易々と爪を引き抜き、再びその凶刃を田中へ向ける。一撃必殺の攻撃をなんとかいなしていた田中もそろそろ限界が近い。ジャケットは破れ、スキニーパンツは裂け、既にボロボロの様相だ。
既に律の足は動いていた。走りながら、皐月の言葉を
――〝人狼が殴り倒されたという認識〟を押し付けてやるのよ。
同じことだ、と律は思った。
律はこれまで対峙した相手に、〝達人の動きで回避されたという認識〟を押し付けていた。
今度は相手に、相手の主観に、〝攻撃され、ダメージを受けた認識〟を押し付けてやればいいのだ。
不安が無いといえば嘘になる。これまで律は他人に明確な暴力を振るった経験がなかった。格闘技の経験はもとより、殴り合いの喧嘩さえしたことがない。達人の動きを取り入れてはきたが、あくまでも回避だけだ。それも律の肉体でも無理のない動きに限っている。打撃や投げ、関節技といった攻撃面は一切無視してきた。
それでも、と律は右手を握り固める。会ったばかりの自分を庇ってくれた田中を、変わらず声を掛けてくれた同級生を、そして自分や家族の暮らす街を。
驚異的な動体視力を持つ人狼は既に、此方へ駆けてくる小柄な体躯に気づいていた。眼には決意を湛え、拳は固く握られている。
〝人〟狼の名のとおり、伝承では人が变化した姿とされている。獣の風貌を持ち、口部の構造上人の言葉を発することはできないが、知能も人並みである。人狼は、満身創痍の田中を助けるための捨て身の行動だろうと、律の特攻を認識していたのだ。
そう離れてはいなかった距離はすぐに縮まり、少年は右腕を大きく振りかぶった。先程の目を見張る回避とは打って変わった、型も技術もない、ただただ勢いに任せたテレフォンパンチ。思わず失笑が漏れてしまいそうなそれは、回避するのもカウンターを合わせるのも容易だろう。
だが人狼は、徒手空拳で挑まんとする中学生の少年の拳を、回避どころか防御さえしようとしなかった。あえてその貧相な拳を打ち込ませ、微動だにしないその体を見せつけてやるつもりだった。絶望を与えた上で、為す術もないまま引き裂いてやろうという邪悪な思惑があったのだ。
しかし、人狼の思惑は脆くも崩れ去った。
「ああああああああああああッ!」
手前で跳躍し、雄叫びを上げながら繰り出された律の拳は、人狼の頬を打ち抜いた。
そう、
鈍い衝撃音を響かせたそれは、人狼の頬へ突き刺さった。斜めに突き出された拳はその勢いのまま、抉るように首をぐるん、と捻る。そして拳が振り抜かれた瞬間、二メートルを軽く超えるような巨体は宙に浮いていた。
意味がわからない。痛い。なんだ、これは。人狼の思考を支配していたのは強烈な痛みと、それ以上の困惑だった。わけもわからぬまま、人狼は後方へと弾き飛ばされる。
その重さを示すようにずずん、と地響きが立ち、人狼が仰向けに倒れる。
追撃にせよ捕縛にせよ、絶好のチャンスだった。しかし田中も、柚那も、当の律でさえも、ぽかんと口を開けたまま動けなかった。送り犬さえ、唖然とした表情で固まっている。
「きゃー! やったわ! 律くん、きみ最高!」
その歓声に目を向けると、皐月がぴょんぴょんと跳ねていた。いつもの不敵な微笑みではなく、満面の笑みを浮かべた皐月は奇声とともに律を褒めちぎっている。
見たことのないテンションに律が思わず頬を引き攣らせていると、低い唸り声が耳を捉えた。
見れば殴られた頬と、打った後頭部の痛みに呻きながらも、ゆるゆると人狼が立ち上がったところだった。
律は目で田中を下がらせ、人狼の前に立ちはだかる。
「ウゴアアアアアアッ!!」
人狼は獰猛な咆哮とともに律へと飛び掛かった。
それを律は、僅かに位置を変えるだけで躱す。すかさず反転した人狼が、爪を繰り出すが、律はそのすべてをひらりひらりと避けていく。
苛立ったように小さく唸った人狼は、大きく開いた両腕を交差するように繰り出す。後方へと下がって躱した律に、人狼は好機とばかりに顔を突き出した。これまで使用しなかった最強の武器――その牙で、人狼は小さな叛逆者を葬り去らんと口を開いた。
だが牙の門が閉じられるより前に、律は身を屈め躱す。眼下で膝を伸ばしながら拳を突き上げる律の姿が、人狼が見た最後の光景だった。
顎の下に拳を受け、がちんと嫌な音を立てて人狼の口が閉じる。
操り人形のようにふらふらと足を動かす人狼。数歩で歪な舞踊は終わり、再び人狼は地に倒れ伏せた。
既に光のない目を
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