10.狼化妄想症
「さて……どう思う?」
柚那の姿が見えなくなってから、律は口だけを小さく動かし皐月に尋ねた。
突拍子もない話だ。しかし、ここ数ヶ月の生活であり得ないことばかりが続いている。それに、奇しくも夢が現実へ侵食する経験もしていた。律からすれば、柚那の話を妄想だと切って棄てることはできなかった。
「
「それは?」
皐月が呟いた耳慣れない単語に、律は眉を
「端的に言えば、動物に変身するという妄想、または自分が動物であるという妄想の起こる精神医学上の症候群のことね。統合失調症、双極性障害または重度のうつ病など、別の精神疾患と混同されるケースが多いようで、正確な数は分かっていないの。別名
律は口を挟まず、説明を続けるよう視線で促した。
「まあ、話がややこしくなるから狼のケースに絞るわね。狼化妄想症は十六世紀ドイツ、ペーター・シュトゥッベという男が確認されている最古の患者とされているわ。彼は二十五年間の間に盗む、犯す、殺すを繰り返し、最終的に十三人もの人を殺害したの」
自身を狼であると認識し、殺人を犯す。今回の事件に共通するところが見出せそうで、律は思わず身を乗り出していた。
「彼は捕縛された際に『狼に変身できる魔法のベルト』を悪魔から授かったことを主張したらしいわ。逃走時、そのベルトを落としてしまったため人間の姿に戻ってしまった、と」
「そんなことがあり得るのか?」
「まあ私が言うのもなんだけど、『魔法のベルト』なるもので恣意的に獣化を行った……なんてことは十中八九妄想でしょうね」
苦笑を浮かべる皐月に、律は複雑な表情で応える。
「それ以外にも、少なくとも両手では数えられない程の症例が残っているわ。ただ殺人にまで発展したペーター・シュトゥッベのケースはむしろ特異で、大部分は獣化妄想や異常行動に留まっているのだけど」
「沢村がその、狼化妄想症だと?」
「可能性はあると思う。症状をいわゆる〝
律は、皐月の言葉を咀嚼するように数秒目を閉じた。そして皐月の目を見つめ、慎重に尋ねる。
「沢村が犯人である可能性は?」
「……可能性は、否定できないわ」
皐月は静かに、しかしはっきりと返した。
「自分が人狼である……言わば〝狼憑き〟というトランス状態に陥った彼女は、一時的に身体の
「そうか……」
予想はしていた返答だが、具体的に言葉にされたことで律はショックを隠せなかった。
柚那が犯人であることを否定する要素は無いか、悪あがきのような思考に
果たして皐月は口を小さく開けて前を――律の背後を見ていた。訝しむ律の耳に、耳慣れない男の声が届いた。
「いいや。俺は、お嬢ちゃんは犯人じゃないと思うな」
律の警戒心が沸騰した湯のように一気に引き上がる。逡巡する間もなく、律は反射的に振り返った。
声の主を貫く視線の先には、背後のソファ席から身を乗り出している男がいた。男はソファ席の上で組んだ腕に顎を乗せた態勢で、不敵な笑みを浮かべている。
動揺のあまり、ぱくぱくと言葉にならない声を上げている律の視線を
パーマなのか地毛なのか、癖の強い茶髪が跳ねるボサボサの頭。胸元には十字架を
男が律の隣へどかっと腰を降ろすと、香水か整髪料か、シトラス系の香りが鼻を突いた。
「な、なんなんだ。あんた」
かろうじてそんな言葉が口をついて出たが、男は笑みを意味深に深めて応える。そして、飲み物を注文するような軽い調子で言った。
「俺は
正気を取り戻しかけていた律も、そして皐月も、そこで再び唖然としてしまう。
律たちが絶句した理由は男の風貌や行動の無遠慮さではなく、男が言った言葉だった。
それは男の名前……ではない。
たった今――この男は、〝
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