9.述懐
とにかく落ち着いたところで話を聞こうと、律たちは半ば引き摺るように柚那を連れ、目についた近くの喫茶店に入った。
ドアベルの音とともに足を踏み入れた律は、ざっと店内を見回した。表通り同様、休日だというのに客の姿はまばらだった。
とはいえ
律たちは女性店員に案内され、ボックス席に向かい合う形で腰掛けた。左側が通路に面しており、奥に皐月、通路側に律が来るように座る。
「なにか飲んで少し落ち着いたら、もう一度説明してくれないか?」
律は努めて穏やかな口調で声を掛けたが、テーブル越しの柚那はメニューも開かず黙って俯いている。
律は少し迷ってから紅茶を二つ注文した。程なくして湯気を立てた紅茶が運ばれてくる。紅茶と一緒に置かれた小さな陶製のポットにはミルクが入っているのだろう。
しかし目の前にティーカップが置かれても、柚那は時が止まったかのように微動だにしなかった。
手持ち無沙汰な律は、周囲に視線を向けた。
黄色系の照明が控えめに灯っている店内は、昼間でもやや薄暗い。窓もあるにはあるようだが、よくわからないオブジェや鉢植えが置かれた飾り棚の奥は分厚い磨り硝子で、昨今の開放的なカフェとは趣を異にしている。時を経て黒ずんだ木壁やレトロなハイバックチェアも、外資系のチェーンとは違う洋風感が溢れていた。
席と席の間も広めに取られており、他人の耳を気にせずに落ち着いて会話ができそうだ。僅かな時間に、律はこの店にかなり好感を覚えていた。と同時に、できればこんな機会ではないときに訪れたかったと内心溜息を吐いた。
ろくに店名も見ずに入店してしまった律は、メニューの表紙に店名が書いていることに気づいた。
どうやらこの喫茶店は『アネモネ』というらしい。一見モダンレトロな雰囲気に合っているようだが、アネモネの花言葉は、由来となったギリシャ神話のエピソードから「恋の苦しみ」「はかない恋」「見捨てられた」など失恋に
視線だけを向けると、皐月が満面の笑みを浮かべていた。これは、〝はやくなんとかしろ〟の顔だ。まさに目は口ほどにものを言う、である。
頬を引き攣らせながら、律は柚那に目を向ける。そして、促すように言った。
「順序立ってなくても、支離滅裂でも構わない。なにがあったのか説明してくれないか」
律の言葉に、何かを言いかけてはやめる動作を繰り返した柚那は、最終的に再び俯き、掠れた声で言った。
「よく考えたら、その、意味がわからないというか、自分でも信じられないというか。とても人に話すようなことじゃない、かな。……ごめん、やっぱり帰るね」
あはは、と声だけで力なく笑い、腰を浮かせかけた柚那に、力強い声が掛けられた。
「信じる」
念を押すように、律は繰り返す。
「信じる。だから、聞かせてくれ」
律の真剣な様子に気圧されたように腰を降ろした柚那は、
*
柚那の語ったのは、
曰く、律と再開した日の帰り道、正体不明の獣に襲われた。しかし外傷もないまま気づけば自室に戻っていたという。
それ以来、特に不調をきたすことも無かったのだが、先日の猟奇殺人の日に見た夢が問題だった。
「夢の中。私は狼人間になって、男の人を喰い殺したの」
そして翌朝のニュースで、それが単なる夢ではなく、実際に起こった事件だと知った。
「それでも、〝偶々同じ夢を見ただけなのかもしれない〟、そう思いたかった私は、事件のことを調べてみたの。ニュースでは出てなかったけど、ネットには被害者の顔とか、血まみれの現場とかの写真が載ってたわ。殺された人の顔、私が夢で見たボーイの人と同じだった。間違いない。私の姿を見た瞬間の、呆気にとられたような顔が今も目に焼き付いてるのよ」
信じると言った手前、律は相手を否定するような発言は一切しなかった。頷き、先を促す。
「考えてみたら、あの日から肉料理ばかり食べたくなって、爪が伸びるのも妙にはやくなった気がするの。……それにね」
柚那は一度言葉を止め、全てを諦めたような表情でぽつりと言った。
「事件の日から、鏡に映る私が時々、狼人間に見えるんだ」
「それは、どういう」
思わず訊き返した律に、柚那は自虐的な笑みを浮かべる。
「鏡も、硝子も、ピカピカの車も。カップに入った紅茶も。映るものならなんでも、時々自分の姿が狼人間に見えるの。ねえ。私のこと、ちゃんと人間に見えてる?」
律が頷くと、柚那はほっとしたように息を吐いた。
「警察に行かなきゃいけないのかもしれないけど、こんな話をしたところで、素直に信じて貰えるとも思えない。でも、自分が人を殺してしまったんじゃと思うと怖くて堪らないの……。どうしたら良いかわからなくて、事件のあった近くをふらふらしてたんだ」
律は言葉を選ぼうと黙り込み、結局取り繕うことなく告げた。
「……警察よりも、まずは病院じゃないか? 目立った外傷がなくても、前会った日、頭を打ったりしていたのかもしれない。一度詳しく診てもらったほうがいいんじゃ」
それを聞いた柚那は一瞬険しい顔を浮かべたが、律の言葉に批判や疑いの色の無いことに気づき、表情を和らげた。
「そうね、うん。そうした方がいいかもしれない」
「今聞いた話は、誰にも言わないから安心してくれ」
「ありがとう。……実は、藍川くんなら大丈夫だろう、ってずるい気持ちもあったかも。ほら、藍川くんって学校にも行ってないし、誰かと連絡を取ってる感じでもなさそうだし」
苦笑交じりに言う柚那に、律も同じ笑みを返す。
「まあそれよりも、とにかく誰かに聞いてほしかったんだ」
憔悴はまだ感じさせるが、それでも随分雰囲気は落ち着いたようだ。
昼食までに家に帰るとのことで、柚那は先に席を立った。そのまま別れるつもりだったが、「何かあれば相談したい」という強い要望に律が折れ、二人は連絡先を交換した。
「話を聞いてくれてありがとう」と穏やかな声色で言い残し、柚那はドアの向こうへ消えた。
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