5.聖アナスタシア学園

 土曜日。律と皐月は聖アナスタシア学園の敷地内に足を踏み入れていた。

 

 律は今、学園の制服に身を包んでいる。

 屈強な警備員が常駐する、関所のような印象を与える校門を通る際は冷や汗をかいた。だが、呼び止められることも訝しげな視線を向けられることもなく、拍子抜けするくらいあっさりと通過することができた。それだけ律の女装に違和感がなかったからなのだが、ほっとした反面、内心律は複雑な心境だった。


 学園では名目上、土曜日は自由登校ということになっていた。しかし勉学に力を入れている学園は、任意参加の補講の開催や自習室の解放を行っており、実際はほとんどの生徒が土曜日も登校していた。

 平日のように朝から夕方まで学習に励む生徒もいれば、午前中だけ、午後だけといった形で自主学習を行う生徒もいた。生徒の出入りが不規則になる土曜日を狙って、律たちは学園内に紛れ込んだのだった。


 律は『アネモネ』での雫の言葉を思い出す。

 ――依頼者の子には〝私の部下〟が対応するって話を通しておくから。

 と、妙に一部分を強調して雫は言った。

 彼女によれば、依頼者とは中庭で落ち合う手筈を整えているとのことだ。

 律は抽斗からこっそり持ち出した母親の腕時計に目を遣る。十二時三十七分。指定の時刻である十三時まで二十分ほどある。

「まだ少し時間があるけど、どうする?」

 律は周囲を警戒し、囁くように皐月へ問いかける。緊張と警戒で動きが硬い律に、皐月は苦笑した。

「そんなにピリピリしなくても大丈夫よ。でも、そうね。平日は学園内に入ることができないし、ゆっくり中庭へ向かいがてら、建物の位置関係くらいは把握しておきましょうか」


 小・中・高の三過程が同じ敷地内に存在することもあり、学園は緑溢れる広大な敷地を有していた。

 校門を抜け、緩やかにうねる石畳の小路の中ほどには噴水が設置されており、その先には左右に延びた三階建ての建物が鎮座している。校門の側にあった案内板によれば、高等部の建物である本館らしい。

 重厚な西洋建築は見るものを圧倒し、窓枠や壁にはいたるところに凝った意匠が施されている。アーチ型の正面玄関の上部にはステンドグラスが嵌め込まれ、陽光を反射し淡く輝いていた。

 先程の案内板によれば高等部を正面に据え、左側に中等部、右側に初等部と片仮名のコの字を描く形でそれぞれ独立した建物が配置されており、建物に囲まれた部分が中庭にあたるようだった。更に奥には校庭や体育館、正門から見て最奥部には寄宿舎が並んでいるらしい。

 律たちは本館を左からぐるりと回り込むように足を進めた。石畳を踏みしめながら手入れされた植え込みの奥に目を遣れば、ミッション系らしく礼拝堂が鎮座していた。

「凄いな……」

 律は思わず感嘆の声を漏らす。ふるびた石壁からは長い歴史の息使いが伝わってくるようで、律は神妙な心持ちになった。


 高等部と中等部の建物の間を抜けた先には案内板通り中庭があった。派手さはないが、綺麗に刈り揃えられた芝生と植え込み、優しい木陰を作る並木が落ち着いた印象を与える空間だった。

 所々ベンチやガーデンテーブルが設置され、ちらほらと談笑する学生の姿があった。

 律は再び腕時計へ目を落とす。時刻は十二時五十五分。丁度良い頃合いだろう。

 目印となる淡いブルーの日傘を携え、空いているベンチに向かってゆっくりと足を進める律だが、呼び止める声に歩を止めた。

「あの……雫様の関係者の方、ですか?」

「雫様!?」

 突然呼び掛けられたことよりも、〝雫様〟という聞き捨てならないフレーズに、思わずぎょっとした顔を向ける律。

 視線の先には一人の女生徒が立ち竦んでいた。活発な印象を受ける少女だったが、今は律の形相にやや怯えの表情を浮かべている。

「私、ここで人と待ち合わせをしていて……その、人違いだったらごめんなさい!」

 言って、頭を下げる少女。肩口で切り揃えられた髪はやや色素が薄く、茶色がかっている。小柄な体躯や、ほんの少し吊り上がった目尻、大きな眼がかった瞳も相まって、律にネコ科の動物を思わせた。

 そのまま踵を返して立ち去りかけた少女に、律は慌てて声を掛ける。

「ま、待った。すまない。ぼ……私がその、雫……さんの、関係者で間違いない」

 思わず〝僕〟と言い掛け慌てて訂正する律に、少女――茉莉はふわりと微笑んだ。

「よかった。あ、申し遅れました。私、山﨑やまさき茉莉まつりと言います。どうぞよろしくお願いします」

「ああ……よろしく」

 お嬢様学校らしく洗練された所作で会釈をする茉莉に、律もぎこちなく頭を垂れる。律の行動も、そして性別も、いまのところ茉莉が疑っている様子はなかった。面と向かって言葉を交わしても性別が露呈しないことに再び複雑な感情が湧き上がってきたが、それを無理やり圧し殺し律は口を開いた。

「なんでも、妙な事件が起こっているらしいな。早速で悪いが、詳しい話を聞かせてもらっても?」

 律はいつものぶっきらぼうな口調を改めるつもりはなかった。妥協に妥協を重ねて女装という領域に踏み込んだ律にとって、それは最後の防衛線だった。ここが破られれば、再びあの狂気が顔を出しかねない。皐月もそのことを理解していたため、律の好きにさせていた。もっとも、口調程度で律の女装は見破られないという確信もあったのだが。実際に対面した茉莉も、少なくとも表面上は、律の口調に違和感を覚えた様子はなかった。

 律の問いにやや表情を暗くした茉莉は、声を潜め言った。

「もちろんです。ただ、ここではなんですので、もう少し人のいない場所へご案内致します」

「ああ、わかった」

 律に頷き返すと「では、こちらへ」と茉莉は歩きだした。

 律と皐月は小さく頷き合い、背を向けた茉莉の後を追っていった。

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