14.開演
「ほんとに来たんだな」
律たちが近づく足音にブランコに座る田中は顔を上げ、意外そうに目を見開いた。
日付の変わる頃。律のスマートフォンは「ブランコのとこ!」という短いメッセージを受け取った。息子同様規則正しい生活を送る両親が寝静まったのを確認し、律は窓から家を出る。ベランダ、車庫の屋根、外塀と順に比較的容易に脱出することができた。
「……これって泥棒が侵入しやすい造りなんじゃ」
「その通りね」
という会話を経て、センサーライトや防犯アラームの設置を今度提案してみようと思った律だった。
そして公園に到着後、メッセージ通りの場所にいた田中に対面したというわけだ。
呆れ顔で律が言った。
「……なんでそんなとこにいるんだよ」
昼間とは違い濃紺のジャケットを羽織ってはいるものの、格好は相変わらずチンピラそのものだ。
「ちょっと休憩だよ、休憩」
咥え煙草で返事をする田中。
「お前も一本どうだ?」
「遠慮しとく」
「そうか」
二人のやり取りにも表情を変えない皐月が静かに訊ねた。
「どうなの? 今夜は」
田中が、肺に溜め込んだ煙をゆっくりと吐き出す。
「お前らは運がいい……いや、悪いのかもしれねえ」
紫煙は行き場を探すように夜を彷徨い、やがて闇に溶けた。
「どうも一発で〝当たり〟を引いたようだぜ」
向けられた眼光の鋭さに、律が思わず息を呑んだその時だった。
女性の悲鳴が律たちの鼓膜を揺らした。
「そう遠くないぞ!」
立ち上がった田中に、音の発信源を即座に分析した皐月が後方を指し示す。
「あっちよ!」
皐月の言葉よりも早く、律は走り出していた。「おい! 無鉄砲に飛び出すな!」すぐに田中も後を追う。
遊具が設置されているのは広い市民公園の一角に過ぎない。砂のグラウンドは舗装されたアスファルトへと変わり、散歩コースとなっている遊歩道を駆け抜ける。そして噴水のある池のそばに差し掛かったときだった。
夜を切る取るように光を落とす照明の下、肩で息をする少女の姿があった。その背後で、黒い毛並みがところどころ紅い液体で濡れた、大きなイヌ科の獣が唸り声を上げている。
「沢村!」
そう、少女とは柚那だった。
「藍、川くん……? どうして……?」
律に気づいた柚那だがその場を動く様子はない。ランニングウェアに身を包んだ柚那は立っているのも苦しそうに荒い息を吐いており、背後を囲うように獣が身を捩っている。
まずはなんとかして獣を引き離そうと足に力を込めた律だが、後方から強く腕を引かれつんのめるような態勢になる。
たたらを踏んだ律が振り返ると、険しい顔を浮かべた田中と目が合った。
「勝手に先行するな馬鹿! 死にてえのか!」
投げられた強い言葉にかあっと血が昇りかけた律だが、言葉の裏にある心配を感じ取り怒りを収める。だが焦りまでは止まらない。
「悪かった。で、でも沢村が」
律の視線を追うように柚那と、背後の獣に目を向ける田中。
「……ありゃ送り犬だ。嬢ちゃんを護ってるんだよ」
その眼差しに焦燥は感じられない。
「送り犬……?」
田中の横にいる皐月に目を遣ると、「時間がないから」と呟き律の頭を両手で挟み込んだ。
戸惑っている暇もなく、そのまま額同士を強く打ち合わされる。視界に火花の散った瞬間、皐月の語る情報が脳へ直接流れ込んできた。
「送り犬。或いは送り狼。単に山犬や狼とも呼ばれることも。送り
さて、これらの妖怪の大きな特徴は、『山道を歩いていると、
その理由は大きく分けて二つあって、ひとつが〝転んだところを食い殺す〟ため。但し、もし転んでしまっても、疲れて休んでいる振りをするとか、
そしてもうひとつの理由が、〝人を熊や狼、猪といった危険から護り、無事に送り届ける〟ためについてくるパターン。たとえばこんな話が有名よ。
出産のため実家に戻ろうと山道を通っていた妊婦が道中産気づき、その場で子供を産み落とした。そこへ送り犬が集まってきて、女は「喰うなら喰え」と開き直るんだけど、送り犬たちは襲いかかるどころか母子に寄り添うように歩き、しまいには一匹が夫を家から引っ張って連れてきた――って話ね。
こっちの護ってくれるタイプの方を『送り犬』、人を襲う方を『迎え犬』と区別する地域もあるわ。前者は言葉でお礼を言ったり、食べ物をあげたりすると帰っていくそうよ。
で、沢村さんの場合だけど、今日喫茶店で聞いた〝獣〟に襲われた話は、まさにこの護ってくれる『送り犬』と出会ったパターンだと考えられるわ。出会ったのは結構前のことみたいだけど、未だにくっついているのは帰ってもらうための作法を行っていないからか、もしくは――〝危険〟がまだ去っていないからか。
……驚いたかしら? 私ときみ。根幹が繋がってるからこそできる荒業よ。私も痛いし気持ち悪いからあんまりやりたくないんだけど、今はそうも言っていられないから。質問は受け付けるけど、手短にね」
これだけの情報が瞬きする間に一挙に流れ込んできたことで、律は酩酊感にも似た感覚にとらわれていた。それでも強制的に高速回転を始めた思考の中で、なんとか疑問を捻り出した。
「じ、じゃあひとつだけ」
皐月に目線だけで促され、律は続ける。
「沢村が見たっていう夢――人狼の夢はなんなんだ?」
果たして、その質問に答えたのは田中だった。
「注意喚起のつもりだったんだろうな。〝こんなやべえやつがいるぞ。気ぃつけろ〟って、嬢ちゃんに教えてくれてたんだ」
まだ半信半疑ではあった。しかし、言われてみれば獣――送り犬は柚那を護るように身体を丸めている。消耗している様子はあるものの目立った外傷は見当たらない柚那に対して、送り犬はあちこちから血を滴らせている。
――そこで律もようやく思い至った。
「に、逃げてえええ!」
柚那が悲鳴のような声を上げた、その刹那。
「伏せろッ!!」
田中の怒鳴り声と、律が身を屈めるのはほとんど同時だった。
暴風のような殺意が律たちの頭上を通り抜けること数瞬、爆発したような音を立てて、池の水面が大きな水飛沫を上げた。
律は既に能力を発動させている。強化された動体視力で視認したそれは、市民公園の園内図や注意書きを記した金属製の看板だった。
「へえ、今のを躱しちゃうんだぁ?」
続いて投げられたのは、場違いなほど喜色に富んだ声音。
ずん、と地響きのような重量感のある足音とともに、木々の間から巨大な影が現れる。
果たしてそれは、律たちが再演した現場で見たあの人狼の姿だった。銀色の毛皮を纏った巨躯。子供の胴体ほどもありそうな太い手足。尖った耳と突き出た鼻を持つ頭部はまるで人間のように口元を歪め、凶悪な笑みを浮かべている。
「おうおう、ついにオカルト殺人鬼のお出ましか」
軽口を叩きながらも、田中は懐に手を入れ油断なく隙を伺っていた。緊張からか、その顔には脂汗が滲んでいる。
だが律の視線は、圧倒的な暴力の片鱗を見せた人狼に、微塵も向けられていなかった。
その隣、人狼の胸ほどもないもうひとつの存在。先刻の声の主に、縫い付けられるように固定されている。
「あ……、あ……」
それは制服を着た、律や柚那とそう歳の変わらぬように見える少女だった。
「あっれえ? そこの君、見たことあるなあ。どこだっけ……」
媚びたような仕草で長い指を唇に当てた少女は、
「わかったあ!
くすくすと嗤いながら、大げさな表情で驚きを示す。
「ど、どうした!?」
「律くんっ!」
心配と驚きの入り混じった田中の声も、焦ったような皐月の声も耳に入らない。
汗と、いつの間にか溢れ出した涙で顔面をぐしゃぐしゃに歪め、律は獣のように吠えた。
「あ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
壊れたような絶叫が、夜の闇にこだました。
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