6.死闘
「何故、という顔をしているな」
佇む男に向かって、不敵な表情を向ける律。
律は能力を使い、刃物男の存在を思い描き続けた。男は律の夢の中――脳の管轄内に現れる存在だ。
夢の中では空間的にも物質的にも大きな制限があった。だが極端な話、現実ならば戦車や重火器で迎え撃つこともできるだろう。とはいえ一介の引きこもり少年ができる備えには限度がある。そこで用意したのが、夢の中の世界には存在しなかった鋼板だった。
律は皐月と事前に練った手順を思い返しながら、相手を挑発するようにあえて背を向けた。
「あんたのナイフは、もう刺さらない」
律は挑発への反応を伺いつつ、隙を探るつもりだった。
しかし刹那。どん、という鈍い音と共に、律の視界がぐらりと歪んだ。たたらを踏んだ律は、なんとか転倒せずに体勢を立て直した。
反応を見るどころではない。男は即座に攻撃を仕掛けてきた。
見れば男はナイフをどこかへしまい、握り締めた拳を構え、嗤っていた。今の衝撃も拳によるものなのだろう。予想外の事態に律は息を呑む。
斬撃や刺突はもちろん、分厚い鋼板は打撃の直接的な被害も防げるだろう。だが衝撃は別だ。人間離れした力から繰り出される衝撃で全身を揺らされ続ければ、脳は平衡感覚を失い、内臓にも少なからずダメージを受ける。
これ以上打撃を貰うのはまずい、そう判断した律は、予め簡単に解けるようにしていた紐を解いて鋼板を捨てた。ごうん、と音を立てて鋼板がアスファルトへ落ちる。
鋼板はあくまで初撃を防ぐためのものだった。相手はどこからともなく現れるが、確実に背中を狙ってくる。最も危険な初撃さえ防げば、対策が取れると踏んだ結果だった。
静かに、深く息を吸い、男を見据える。
律の纏う雰囲気が明らかに変わった。
防御の要である鋼板を捨てた律に男は警戒した様子を見せつつも、残虐な笑みを消すことなく踏み込んだ。
人外の速度で迫る拳が律を捉え――逸れた。
否、律が逸らしたのだ。律は男の腕の側面に自らの腕を当て、最小限の動作で必殺の拳を
男の目が驚愕に見開かれるが、すかさずもう一方の拳を抉り込むように撃ち込んでくる。だが、斜めに身を引いた律はやはりすんでのところでそれを回避した。
決戦の〝準備〟。それは鋼板だけではなかった。主となるのは
律はインターネット上にある動画を、数倍速で視聴していた。ボクシング、合気道、テコンドー、護身術……。プロや達人と言われる者たちの動きを、モンスターマシンと化した律の脳が片っ端から取り込んでいく。
そして彼の脳は、取り込んだ情報を処理する。達人の動きは、それを可能にする肉体がなければ成り立たない部分が大きい。特に攻撃面ではそれが顕著だった。そこで律の脳は、自身の肉体にでも可能な動きを抽出・トレースしていったのだ。
基本的に〝避ける〟ことに特化した対策の効果は
律の脳は至近距離からコンマ数秒で繰り出されるボクサーの拳や、一瞬で掴まれる柔道の投げ技など、刹那の攻防から回避の動きだけを抽出し、蓄積した。今の律は、様々な武術や格闘技を修めた相手と膨大な戦闘経験を積んだに等しい状態なのだ。
いつの間にか
突き出される刃を、撃ち出される拳を、ひらりひらりと躱し続ける律。律と男の止まることのない一瞬の攻防は、まるで観客のいない演舞のようだった。
達人の動きをトレースし
と、男のナイフが遂に律の頬を掠めた。焼けた鉄を押し当てられたような痛みとともに、漏れ出た血液がつう、と頬を伝う感覚を律は感じる。
男は残虐な笑みを深め、
刃物男は律の能力で喚び出された存在、つまり彼の妄想だ。しかし妄想と現実の区別が無い今の律は、妄想で負った傷や怪我を実際に背負うこととなる。夢の中のようにやり直しはきかない。律は今、残機ゼロの状態で一撃一撃が致命傷となり得る攻撃と対峙しているのだ。一発でも貰えば即、
(このままだとまずいな……)
徐々に消耗していく体力と死への恐怖は、律に僅かな焦りを膨らませていく。そしてそれは更なる隙を生んだ。
やけに大振りな斬撃を僅かに斜め前へ踏み出すことで回避したとき、男が舌舐めずりをする。怪訝に思う間もなく、律が踏み込んだ瞬間、体重移動の隙を狙った男の足が鋭く伸びる。次の瞬間、バランスを崩された律の身体が宙に浮いた。
(足払い――ッ!?)
拳、ナイフと、男は両の手を使った攻撃しかしてこなかった。律は無意識に、警戒の比重を男の両手に傾けすぎていた。そしてその油断が生んだ意識の空白を男は見逃さなかった。
転倒し、無様に手をついてうつ伏せになった律は、咄嗟に男の姿を探す。首だけを捻り、それを見つけた律は観念したように動きを止めた。
視線の先には、がら空きとなった背中にナイフを振り上げる男が、嗤いながら律を見下ろしていた。
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