8.チャンネル
「……で、結局、あいつは何だったんだ?」
激闘から半日と少し経った律の部屋。ベッドに寝転ぶ律は、ローテーブルに座り文庫本を
〝なんとか倒せたが、結局何だったのかわからない〟、それが律の今回の件に対する偽らざる印象だった。夢の中の男がどんな存在で、本当に倒すことができたのか。これから睡眠へ臨む律は、確信が欲しかった。
皐月は本を閉じテーブルへ置くと、言葉を整理するように暫し沈黙した。そして静かに口を開く。
「あくまで推論でしかないから、話半分に聞いてほしいのだけど」
そう前置きして、皐月は語りはじめた。
「律くん。きみの脳が今、凄まじい情報処理能力を持っていることは、既に説明したわね」
「ああ。説明してもらったし、確かな実感もある」
数倍速で見た動画の情報を蓄積し、動画の動きをトレースするように律の肉体に合わせて電気信号を流す。そんな荒唐無稽な出来事を、早朝の戦闘で律は実際に体験していた。
「しかも今朝の件はきみの能力のほんの一端に過ぎないわ。きみの脳は、現存するどんなスーパーコンピュータよりも、遥かに優れた情報処理能力を持っているの。それは即ち、数多の情報への感度が異常に高い状態なのよ。これがどういうことかわかる?」
首を振る律に、皐月は続ける。
「たとえるなら、律くんの脳は通常ではキャッチできない周波数を拾う、改造無線のような状態なの。つまり今、
律は黙って皐月の言葉を咀嚼し、出てきた答えを確かめるように、不安気に問う。
「ええと、つまり、なんだ。そういった奴らは、実は当たり前のように存在していて、僕らは今までそれに気づかず生きていたってことか? チャンネルが違うから?」
そんな馬鹿な、という思いが表情に現れる律に、皐月もうんざりしたように言う。
「私だって、にわかには信じられないけれどね。私はきみの脳を通じて膨大な情報にアクセスできるけど、具体的な事例は今までどこにも見当たらなかったわ。でもこれは他でもない、きみの脳が出した推論なのよ」
絶句する律に向かって、皐月は畳み掛けるように口を開く。
「今回の件、最も近しいと思われるのは、通称『夢の中の男』、もしくは『夢と違うじゃないか』という都市伝説よ。色々なパターンがあるけれど、大筋はだいたい同じ。見知らぬ男に追われ殺される夢を見た人が、現実でも男に追われる。その人は夢と異なる行動をしたおかげで助かるんだけど、そのとき男が〝夢と違うじゃないか……〟と呟く、という内容よ。思うにこれは、律くんと同じようにチャンネルが合ってしまった人が実際に体験した内容なのかもしれない。それが都市伝説という形で
早口で語った皐月は、疲れた顔で溜め息を吐く。
「荒唐無稽の権化みたいな存在の私だけど、流石にこれは〝はいそうですか〟とはならないわ。でもだからといって、他に説明がつかないのよ」
困り果てたようにこぼす皐月に、律は思いついたように言った。
「だけど。それを言ったら、この前の首吊りも……」
律の言葉を遮るように皐月は言う。
「いいえ。先日のサイコメトリーもどきとは根本的に異なるわ。あのおじさんは人間の思念という情報と、微細な遺留物からきみの脳が再現した映像に過ぎないの。でもあの刃物男は別。兆候もなく突然現れ、確かな悪意を持って自律してきみを襲ってきた。そして消滅してからは、一切の痕跡を残さなかった。ねえ、こんなことってありえないのよ。今朝のあいつはきみが能力で無理やり引き摺り出したけれど、それでも消去した後は、脳内の〝ゴミ箱〟のようなところに情報の滓が溜まるはずなのよ。でもそれが一切ない。気づいたとき、思わずぞっとしたわ」
怯えたように肩を抱く皐月に、律は反射的に何かを言いかけて、やめる。代わりに、努めて不敵な表情を作る。
「へえ。皐月さんでも、わからないことがあるんだな」
律の言葉に目を丸くした皐月は、苦笑しながら言った。
「これは一本取られたかな。まあ、今まで話したのがあいつの正体……と思われる内容よ」
「ああ。ありがとう。なんとなくわかったよ」
「それはなによりね」
澄ましたように言う皐月に、今度は律が苦笑を浮かべる。
「それに正直、僕からしたらあいつの存在も、僕がネットで見た動きができたことも、荒唐無稽さの度合いは大して変わらないからな」
「ぜんぜん違うわよお!」
苦笑する律に、わざとらしく頬を膨らませた皐月が反論する。そしてすぐに、二人の笑いが部屋を包んだ。
今後、『夢の中の男』のような存在が律たちの前に立ちはだかるかもしれない。皐月はあえて言わなかったが、律もそのことには気づいていた。だが二人とも、今はこの温かな時間を壊したくはなかった。
やがてどちらからともなく笑いが止んだ頃、律は部屋の電気を消した。布団の中に潜った律に、皐月は優しく声を掛ける。
「おやすみ。……良い夢を」
「心からそう願ってる。おやすみ」
言いながらも、律は久しぶりに安心して夜を迎えられていた。数日間の疲れもあり、彼はすぐに眠りの世界へと旅立った。
悪夢は、もう見なかった。
第二話 「夢の中の男」 終
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