幕間

狂気の揺籃

 事故で父親が死んだのは、あおいが五歳のときだった。


 夫の死を受け入れられなかった彼女の母親は、あっさりと壊れた。

「あんたさえいなければ、あの人は死ななかった!」

 優しく穏やかだった姿は見る影もなく、母親は日常的に葵へ暴力を振るうようになった。

 葵の母親は、愛する夫を亡くした喪失感を憎しみで無理矢理に埋め立てた。世界全てに、そしてもっとも身近にいる一人娘の葵に憎悪の矛先を向けることで、母親は辛うじて自壊せずにいる状態だった。


 母親からの虐待は、直接的な暴力に留まらなかった。食事はしなびたパンや缶詰のみ。鍵を開けてもらえず、寒空の下、玄関の前で夜を明かしたことも何度もあった。だがもっとも耐え難かったのは、連れ込んだ男との交合いを葵に見せつけるように行うことだった。媚びた仕草をしながら言葉無く憎しみを語る、男の背中越しにある母親の眼光。母親の嬌声が響く部屋で、葵は目を閉じ、耳を塞ぎ、隅で震えているしかなかった。


 *


 それから数年。母親からの虐待を耐え続けた葵は、八歳になっていた。


「あんた、猫が飼いたいのかい?」

 それは窓の外、塀の上を歩く野良猫を葵がぼんやりと眺めていたときだった。

 思わず目を見開いて見れば、母親は口の端を歪めて嗤っていた。


 それから数日後、母親はケージを持って帰宅した。中を見てみろと顎をしゃくる母親に、葵はおずおずと従う。

「……かわいい!」

 それは仔猫だった。濡れたような艷やかな毛並みを持った黒猫は、つぶらな瞳で葵を見つめている。奇妙な笑顔を浮かべる母親に胸騒ぎを覚えながらも、葵は自分を見つめる小さな瞳に心を踊らせていた。


 あとから母親が語った話によれば、知人が飼っていた猫が仔猫を産み、その一匹を譲り受けたらしい。

 ルドルフと名付けられたその仔猫を、葵はそれこそ目に入れても痛くないほど大切に育てた。「世話は自分でしな」と母親はぶっきらぼうに告げたが、言われるまでもなかった。

 加えてどういうわけか、ルドルフが家に来てから、母親の虐待は鳴りを潜めていた。暴力どころか、育児放棄も、男を連れ込むことすらない。母親の急な変化に戸惑いはしたが、藪蛇を恐れた葵は理由を訊かなかった。きっと母もルドルフの可愛さに心を入れ替えたのだろう。葵は子供心にそう思っていた。そんなはずはない! と叫ぶ心の声を押し留めながら。

 それから暫くの間、葵はルドルフとともに穏やかな日々を過ごした。家の中、休日の公園。葵はいつもルドルフと一緒だった。それは葵にとって、父親を亡くして以来、最も幸福な日々だった。


 *


「あ、そうそう。クリスマスプレゼント、楽しみにしてていいよ」

 ルドルフがやってきてから一年ほどが過ぎたある夜の食卓。母親がわざとらしく思い出したように言った。

「あの人がいなくなってから、一度もあげてなかったでしょう?」

 葵は思わず食事の手を止め、まじまじと母親を見る。母親は、父親がまだ生きていた頃のような笑顔を湛えていた。

 その日は十二月二十四日、クリスマスイブだった。葵は母親の言葉で、ようやくそれに思い至った。


「クリスマスプレゼントだって、何かなあ」

 自室に戻った葵は、クッションの上で丸くなっているルドルフへくすくすと笑いかける。

 世間一般の子供は、クリスマスにはプレゼントを貰うのだ。葵の同級生たちは毎年この時期になると浮足立っていた。だが葵の家ではそんな催しはあるはずがなかった。暴力をはじめとした虐待こそ鳴りを潜めていたが、食事や学校で必要なもの以外、母親は葵に対して基本的に無関心な様子だった。まさか、自分がまたクリスマスプレゼントを貰えるなんて夢にも思っていなかった。

「ルドルフ、明日が楽しみだね。……おやすみ」

 応えるように小さく喉を鳴らすルドルフに微笑みかけ、葵は胸を高鳴らせながら床に就く。なかなか寝付けそうになかったが、じっと横になっているうちに微睡みが支配していった。


 その夜、葵は夢を見た。父親がまだ生きていて、優しかった母親と一緒に遊園地に出かけたときの夢だった。

 コーヒーカップ。メリーゴーラウンド。父親と、母親と、そして両方と、葵は乗り物を楽しんでいく。まだ小さい葵は、絶叫マシンなどには乗れなかった。でも両親と一緒なら、葵はそれだけで楽しくて、幸せだった。

 そして葵と父親は、観覧車に足を踏み入れた。ゆっくりと上昇していくゴンドラの窓に張り付いて、葵は外の景色を眺める。身体の弱い母親は少し疲れが出たのか、眼下のベンチで葵たちに小さく手を振っていた。

 そのとき、父親が葵に声を掛けた。

「なあ、葵。葵って名前はな、葵の花のように気高く、美しく育ってほしい。そう思ってつけたんだ。俺が考えたんだぞ。素敵な名前だろう?」

「うん! あたし、じぶんのなまえ、だいすき!」

 そして父娘は笑い合った。窓の外の母親も、二人の会話が聞こえていたかのように、優しく微笑んでいた――


 翌朝。目を覚ました葵は、自分が涙を流していることに気づいて、パジャマの袖で目元を拭った。まだ夢の余韻は残っている。幸せな夢だった。幸せすぎて、葵は思わず泣いてしまったのだろう。

 だが今は、父の代わりにルドルフが居てくれるのだ。同じくらいとは言わないが、別の幸せを葵は日々感じていた。

 葵は少し身体を起こし、幸せを与えてくれた友人へと声を掛ける。

「ルドルフ、おはようー」

 返事が無い。きっとまだ寝ているのだろう。

 くすぐって起こしてやろうか、そんな悪戯心が芽生えた葵だが、枕元に何かが置いてあることに気づいて跳ね起きた。


 大きさはちょうど、ケーキの箱くらいだった。綺麗な包装紙に包まれ、リボンまで掛けてある。

 葵はどきどきしながらリボンを解き、丁寧に包装紙を剥がした。その途端、据えたような生臭い匂いが鼻をついた。

 異臭をいぶかしみながらも、プレゼントへの期待がまさっていた葵は笑顔のままに蓋を開けた。


 中には細い藁のようなペーパークッションが敷き詰められ、その中心に、黒い何かが鎮座していた。

 いや、ではない。こちらを向いているそれは、一目見ただけでそれがどんなものなのか理解できるはずだった。それを理解できてしまうことを、葵の脳が必死に拒否していた。


 その――母親からのクリスマスプレゼントは、ルドルフだった。首だけとなって光のない目で葵を見つめる、ルドルフだった。


 葵は九歳になったばかりだった。

 喉が焼き切れるほどの絶叫とともに、葵という存在は音を立てて壊れていった。


 絶叫が響く一軒家に、まるで伴奏のように生まれた声。母親の嗤い声。歪な諧調ハーモニーは、突如、水を打ったように止んだ。


 父から貰った名前を持つ葵という少女は死に、後には抜け殻だけが残った。

 そして待ち構えていたかのように、少女の形をした抜け殻へ、悪意が、憤怒が、恨みが、様々な醜悪な感情が、隙間を埋めるように入り込み満たしていった。少女の形をした。やがてそれは、まるで人間のように振る舞い始める。


 静まり返った家屋に、再び響く音の渦。それは死んだ少女の口から漏れる哄笑と、破壊音。何かが倒れる音。破裂音。中年女の悲鳴。そしてひときわ大きな断末魔が余韻を残して消えた後も、嗤い声は鳴り止まない。譫妄の再演アンコールは、いつまでも続いていた。


 浅霧アオイという狂気が、その日、産声を上げた。

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